宇部の海底炭鉱のこと、など。

10月下旬の寿太郎園地
2月2日付日録より一部抜粋。
4時半頃悠太が学校から帰ってくる。ジョン・レノンオノ・ヨーコ「ハッピー・クリスマス(戦争は終わった)」「イマジン」のCDをかける。趙博が唄う「鉱夫の祈り」(詞・曲 高田渡)、「死んだ男の残したものは」(詞 谷川俊太郎/曲 武満徹)も聴かせる。軽薄アホあほしい安小150年の記念ソングとはまるで違う。作り手・歌い手の哲学がある。美しい旋律と詩にこそ、差別や殺戮、不条理への深い怒りが込められる。だから聞き手の心に突き刺さるのだ。そんなことを話す。
 「鉱夫の祈り」の背景として、去年の夏に訪ねた福岡県の田川を記録した筑豊炭鉱絵巻や、宇部の海底炭鉱の話もする。1942年(昭和17)2月3日、宇部の長生(ちょうせい)炭鉱で、海水流入による水没事故が発生した。犠牲者183人のうち136人が、当時日本帝国主義による植民地支配を受けていた朝鮮半島の出身だった。遺骨はいまも海の底にある。もう一つ忘れてはならぬ、保育園や小学校の遠足で行く宇部の常盤公園ってのは、実は炭鉱の遺構なのだ。日本の近代化も、無謀な戦争も、戦後の復興も、炭鉱が支えた。黒いダイヤと呼ばれた石炭を掘り出すため地の底で危険な作業に従事する鉱夫たちの命は資本にとっては交換可能な部品でしかなく、それは檸檬一個より軽かった。この歌を作った当時の高田渡は二十歳そこそこの青年だったが、自身の幼少期から青年期にかけての苛酷な境遇もあり、底辺に暮す人々の苦しみを、身に染みて理解していた。人間への共感と不条理への怒りが美しい旋律と詩を生み出す。世の中にはな、知らなければならないこと、知らなければ恥ずかしいこと、ものすごい表現者のものすごい仕事、仰山ことあるんや。この大島でだらだら過ごしていたのではなんにもわからへんのや。
 どうや、宇部に炭鉱があったなんて知らんかったやろ。
 ――知らんかった。
 小学校の中学年って、県内の色々のことを習うよな、地域学習と称して。何を習うとるんや。
 ――吉田松陰
 そんなん学ばんでええ。山口県で地域学習と言うんやったら宇部の海底炭鉱は外せない。それがまるで出来もせん。だから今の先生方は駄目なんだよ。かつてワシらが習ってきた先生方とはまるでレベルが違うんだ。哲学が無いってのは、そういうことなんだよ。