翌日の新聞が出た……ことがある。

【3月26日】
14年前の今日、1992(平成4)年3月26日付の新聞が、1日早く25日に出てしまったことがある。
当時、私は某奈良新聞社に勤めていた。県内ネタに特化した併読紙奈良新聞は降版の時間帯が早く、最終の1社面も9時半頃で締めていて、且つ1版体制だったから11時くらいには輪転機が回り始めていたと記憶する。

3月24日の宿直は私だった。翌25日付の紙面、最終ゲラを編集と制作の居残りデスクがチェックし、印刷現場でも刷り上がったモノをチェックしているはずなのだが、1面だけ翌日(3月26日)の日付になる新聞が複数の目をくぐり抜け、発送に回ってしまった。
県内各地への発送車もつつがなく出発し、3畳間の宿直室の煎餅蒲団にくるまり白河夜船……ときた午前2時頃、奈良市内の販売店のオジサンから電話が入った。明日の日付やでッ。ほんまに配ってええんか? と。いっぺんに目が醒める。
深夜連絡先のデスク宅に電話を入れる。「うーん。でも全部出てもたんやろ。しゃーないな。電話があったら謝っといて」
件の販売店に電話を入れる。店主曰く「えーかげんな新聞社やなあ」

それからが大変だった。3時から4時頃にかけて販売店から絶えることなく電話がかかってくる。そして4時を回って以降、今度は読者からの電話がかかり始める。会社の代表番号は10回線とれる(と記憶している)のだが、宿直は私1人。ひっきりなしに鳴り続ける電話に対応できない。こりゃあかん、と思って2階の編集局にあがり、電話機数台を1ヵ所に集め、床に古新聞を敷いて横になり、睡魔と闘いながら代表番号が総務局に切り替わる8時半までひたすら電話応対を続けた。

記事のマチガイによる「お詫び記事」に誤記があって「お詫びのお詫び」が出たことがあると聞いたことはあるが(ネタの宝庫ゆえ、お詫び記事のスクラップをつくるのが趣味という社員もいた、らしい)、よりによって翌日付の新聞を出してしまうとは……。
この“事故”で制作局の2人か3人が減給処分を喰らったのだが、何故か私を含め編集局側はお咎めなし、だった。

早朝の問い合わせ電話で「こんなことあるんですね。記念に取っておきますワ」と云った人もいた。一寸オモロイので私もこの新聞を記念に残していたのだが、阪神淡路大震災のどさくさで処分されてしまった。

公称10万部超、実数は内緒……の弱小地方紙とはいえ意外と読まれとるんやな、と感心したのは事実。朝も早よから新聞を手に電話してくる読者が大勢いるというのは、難儀ではあったが嬉しくもあった。

細かい数字などすぐに忘れる私が何故この日付を憶えているのかというと、震災前あたりまで春の高校野球の開幕日は毎年3月26日と決まっていた、からである。