神戸に空港はいらん。

ついに神戸空港が開港した。深刻な環境破壊、輻輳する空域の危険増大、そして終末的な財政破綻といった負の側面を不問にしたまま。「親の不始末、子の難儀」ってこと、ほんまに分かってるのかね。


市役所前では午後から抗議集会が開かれた(ジャーナリスト・ネット、http://www.journalist-net.com/home/ 参照)。私は集会に参加したわけではなく、抗議集会の終わったころ、取材に来ていた先輩と市役所で合流。仕事の打合せのあと、三宮センター街へ。いたるところに「開港祝いセール云々」の看板やら何やら。さすがに提灯行列は見かけなかったが。


開港が秒読みになった年明け以降、新聞は提灯記事のタレ流しで辟易している。今日も、開港を伝える朝日の夕刊を見た限りでは社会面は提灯記事一色。申し訳程度に抗議集会の記事が載っていた。他紙も大して違いはなかろう。


神戸空港の何が問題か、については拙著『阪神大震災・被災地の風貌』『「震災五年」の神戸を歩く』に詳述したし、先に掲げたジャーナリスト・ネットの記事に記されているので、ここでは触れない。ただ、開港の「奉祝」ムードに冷や水ぶっかける意味で一つだけ云うならば、神戸空港建設による環境面、安全面、財政面等々での様々な損失・損害は将来にわたり、すべての市民に苛烈な負担となってのしかかってくるという事実であり、建設をゴリ押しした市長を筆頭とする神戸市当局ならびにオール与党翼賛体制が、そのことへの説明責任を一切合切果たしていないということに尽きる。


98年の住民投票運動をめぐる報道でも、結局のところは目の前で起こっている「事の推移」を伝えるのみに終始し、その根源にある「神戸空港の何が問題なのか」を、事実をもって徹底的に検証するという姿勢は欠落していた、と私は思う。元新聞記者として、あまりにも至らなかった自身の過去の仕事への、慙愧の念を込めて。