八紘之基柱

mizunowa2006-03-09

先月末、宮崎へ出張してきた折、空き時間を使って平和の塔へ行ってきた。
紀元2600年を記念して作られたもので、本来の名は「八紘之基柱」(あめつちのもとはしら)。正面に刻まれた「八紘一宇」の四文字は、故秩父宮の手による。戦争関連モニュメントや観光地の中では、異彩を放っている。忠魂碑どころの騒ぎではない。戦後、平和の塔に改称することで占領軍の取り壊し命令をやりすごした、といわれる。
この塔をめぐる変転と、その設計者である彫刻家日名子実三をめぐって、小社刊『唯我独創の国から』(西日本新聞文化部編、2000年)「旧世代への挑戦状」の項に記述がある。
――鉾と剣で構成された全体が宮崎神宮の御幣をかたどる。皇祖発祥の地・日向に「大東亜」の各地から集めた石材で巨大な塔を建て、神威と「八紘一宇」の精神をたたえようというコンセプトだった。「これほど即物的であからさまな全体主義的モニュメントは、日本では他に類をみない」(日本学術振興会特別研究員で美術史家の河田明久氏)とされる所以だ。(同書55頁)
――日名子が「八紘之基柱」に取り組んだ前後は、彫刻家にとって辛苦の時代だった。戦争遂行と無関係な作品の制作が禁じられる一方で、ブロンズ像は軍需物資として回収され、鋳潰された。(中略)「八紘之基柱」を手がけた背景には、思想や主義というより、「(鋳潰されずに)残る作品が欲しかった」(長男で聖徳大学名誉教授の日名子太郎氏)という、作家の業があったのかもしれない。(中略)戦後半世紀の間、「八紘之基柱」は部分的に形態を変え、またその性格をめぐり何度かイデオロギー対立の焦点となりながら、彫刻家・日名子の望んだ通り、多くの見る者にさまざまな思いを喚び起こし、そびえ立っている。(同書58頁)
また、この本が売れなかった。畸人変人を通して近代日本の原風景を描いた、オモロイ本なんだがなあ……。