戦艦陸奥の爆沈、そして神戸の体たらく。

【21日】
1943年6月8日正午過ぎ、柱島碇泊地で謎の爆沈を遂げ1121人が犠牲となった戦艦陸奥の記念館が、周防大島伊保田にある。戌画伯が午後から広島に向かうというので、その前に記念館の見学に行く。戦後引き揚げられた艦首、副砲、プロペラ、艦首錨が屋外に展示されている。30年以上雨ざらしざらしなのに今なお立派なものである。これだけでも一見の価値がある。
戦艦陸奥の爆沈をめぐって、宮本常一最晩年の著書「東和町誌」に次のような記述がある。

この基地(引用者註―柱島碇泊地)における碇泊艦数を見ておれば、海戦の状況はほぼわかった。勝ったと言いつつ、大きな海戦のあったあと、この基地へ帰ってくる艦の数の減っていることに気付いた。特に昭和17年6月3日、連合艦隊がミッドウェー海域に出撃して帰ってきたとき、航空母艦の赤城・加賀・蒼龍・飛龍の姿はなかったし、その後もこれらの艦の姿を見ることはなかった。日米が開戦してわずか半年後のことである。その時から後、柱島沖に碇泊する軍艦の数は減る一方であった。それによって戦局の不利を島民は知った。
そして昭和19(ママ)年6月8日には東和町(引用者註―町誌執筆時の町名。現周防大島町)北海岸の人たちは異常な爆発音に胆をひやした。戦艦陸奥が自爆沈没したのであった。住民は箝口令をしかれて、何も語ることはゆるされなかったが、それがどれほど重大なことであるかを知っていた。そして伊保田の寺々では海岸に漂着した死体のためにひそかに供養した。
(827-828頁)

記念館の近く、柱島碇泊地を望む高台に慰霊碑が建っている。以前は、ここに行くと線香をあげるところに煙草が垂直にさされていたことがあった、という。「誰かのう、こげなイタズラしよるヤツは」と思うたけど、よくよく聞いてみると煙草好きだった亡き戦友のために線香代わりに立てたんだと。でも最近はそれも見んようになった。それは戦後60年以上経て生き残った人々の多くが世を去ったということだと、私より5級上の“稲垣吾郎メンバー”こと“ヤマネコ氏”さんが話してくれたことがある。大爆発だったやうで、30キロ離れた久賀の方まで色々のものが流れ着いたらしい。そいつを拾うたということで、警察に連れて行かれてエライ目に遭うた人もまた多いんだと。

東和町誌」で宮本常一は、先の記述に続いてこう記している。

太平洋戦争のおこる前頃から広島湾沿岸を走る汽車は海に面する窓のすべてに鎧戸をおろした。呉から柳井までの間であった。その鎧戸の外側で戦争の悲劇が具体的に進んでいたのである。
(828頁)

妹尾河童の「少年H」でも、神戸の須磨海岸を走る山陽本線の汽車の話で、同様のことが出てくる。瀬戸内海じたいが昔から大きな軍港のようなもので、それは平和憲法下の今も変わることはない。

ここで、いまいるこの街に立ち戻る。「非核神戸方式をもつ神戸は平和都市」とか何とか寝惚けたこと書いとる本がある。虫酸が走る。和田岬の三菱ドックに浮かんでいるのはどこの潜水艦だと思うとんねん。ここに勤めている友人に話をしたら、ほなアレか、ここで働いとるワシらは幻か、と。さうなんだらうねえ、さういう人らにとってはねえ……。かういうのを“お花畑の住人”っていふのヨ。
〈昭和20年〉の〈終戦〉を挟んで断絶したもの、継続したもの、についてまともに総括してこなかった結果がこの体たらくだ。反戦反核とかイデオロギーの問題で云うているのではない。
それでも神戸に居続ける私の、この街を愛しながらも、この街を蛇蝎の如く忌み嫌う理由の一つ、である。