神戸の本、再録。

去年の正月明け、メエルマガジン「論論神戸」第52号(2006年1月15日発行)に書いた拙文を、当blogに転載する件について(今年の)正月明けに編集長WさんのOKを頂いたまま、ど忘れしていた。あきまへんなあ。アル中ハイマーが年々ひどうなる。
ウチの刊行物で神戸の本は少ないと書いているが、「男達の神話」「神戸の古本力」「パンの木」「本屋の眼」……と、去年は珍しく神戸関連の本が多かった。まあ、こんな年もある。

論論神戸ウエッブサイト http://www.ronron-kobe.com/

エルマガジン「論論神戸」第52号(2006年1月15日)より

みずのわ出版の「神戸の本」あれこれ

 やっぱり関西、それも長年暮らした神戸がええ。そう思い直した時、一分一秒でも東京に身を置くことが苦痛になった。戦後補償運動の専従を1年で辞めて神戸に戻り、いきなり震災に遭った。その後曲折を経て97年暮れに「一石投ず」の意を込めて「みずのわ出版」なるものを立ち上げた。地方、就中神戸では出版業は成り立ちにくいといわれるなかで、幾度となく経営危機に見舞われながらも、とりあへずは10年目を迎えるに至った次第。単行本、機関誌、企画出版、自費出版、傑作、駄作、えとせとら。実質7年半で60点くらい作ってきた。
 神戸を本拠地に活動してきたといいながら、ウチの本で神戸に関係するモノは、実はそう多くはない。いま「在庫有り」と表示しているものは6点のみである。

 拙著『阪神大震災・被災地の風貌』(1999年3月)が、最初に作った神戸関連書だった。『語りの記憶・書物の精神史』(米田綱路編著、社会評論社、2000年11月)収録のインタビューでも触れたのだが、震災の問題は私が書くのではなく、もっともっと多くの人に書いてもらわなければならない。けれども「しょーもない私がこうして書き残すことで、何らかの起爆剤にならへんかな」という思いがあったのも事実。だが多くの人たちの沈黙を思えば、そういう人たちがどういった歴史を生き、どうして死んでいったのか、「正史」とされないものをきっちり残すことこそ、編集者の仕事だろう。その意味では、まだまだ仕事ができていない。忸怩たる思いが、そこにある。

『あるシマンチュウの肖像―奄美から神戸へ、そして阪神大震災』(1999年9月)を刊行したのは『阪神大震災・被災地の風貌』の半年後だった。
 著者の大山勝男さんは神戸生まれ、沖永良部二世の新聞記者で、私の昔の職場の先輩である。沖永良部島を十代で去り、戦中・戦後の神戸で職人として生き、阪神大震災後の事故で亡くなった父親の生涯を描いた。その背景にあるのは、神戸・阪神間に一世だけでも10万人いるといわれる奄美群島出身者の存在であり、被災地は「もう一つの奄美」でもある。一人のシマンチュウの人生から、港湾都市として発展した近代の神戸を基底で支えた、名も無き多くの奄美出身者の姿が浮かび上がる。これまた、神戸で紡がれた精神史の一脈である。

 近代の開港場となった神戸は、奄美群島のみならず西南日本の各地、遠くは中国大陸や植民地だった朝鮮・台湾等から多くの人が吸い寄せられる坩堝であった。その歴史の中で湊川のおかれた位置は見過ごすわけにはいかない。軍需産業とセットで発展した神戸にあって、川崎造船所の発展を担保するため、日清・日露の二つの戦争を挟んだ時期に湊川が付替えられた。海に向かって真っ直ぐ流れていた川が、会下山に隧道を穿つことで東西、すなわち山と海に並行して流れるようになり、長田区の被差別部落は水害と隣り合わせの生活を余儀なくされた。夜間中学の集会で、たまたま隣で本を売っていた兵庫県湊川高校教諭登尾明彦さんから、この話を伺った。近代が生み落とした移民の町神戸は、富国強兵、そして侵略戦争と不可分の存在であったと。この話をもとに、登尾さんに書き下ろして頂いたのが『湊川を、歩く』(2001年1月)である。
 ちなみに3年後の2004年1月には、登尾さんが一人で出し続けている詩誌『パンの木』収録の詩、エッセイ、演劇台本等をまとめた『それは、湊川から始まった』を刊行した。この本の帯には「教師は、詩人であらねばならない」の一文を入れた。金時鐘さんの跋文から抜き出した言葉である。

 神戸と戦争をめぐってもう1点、『神戸・ユダヤ人難民1940-1941』(金子マーティン著、2003年12月)を紹介したい。
 杉原千畝の「命のヴィザ」でナチスの迫害から逃れたユダヤ人難民のうち、約4600人が神戸を経由して第三国へ移り、第二次大戦を生き延びた。その史実と、戦時下日本政府がとった「猶太人対策」の実相を検証し、歴史「修正」主義者たちの虚構を明らかにしたのが、本書である。特に「杉原ヴィザ」をめぐって、小林よしのり他がウソ八百のデマ宣伝を繰り広げ、杉原の名誉を著しく貶めているという嘆かわしい現状があるだけに、何とか1冊でも多く、この本を読者に届けたいと思うのである。丹平写真倶楽部の連作「流氓ユダヤ」や手塚治虫の『アドルフに告ぐ』とも関わりのあるテーマだけに……。

 あと、もう品切となっているが『空港ストップ! 沈黙しなかった神戸市民』(2000年11月)というのもある。これは自費出版本で、抗いようのない敗北に終わった市長リコール運動の記録である。敗北の総括が甘すぎるのではないかとは思うが、こうして残しておけば後世の教訓にはなるだろう、と。でも、こういった類の本は、一つの記録としては大切だとは思うのだが、本としての魅力には乏しい。こう云っちゃアレだが、「運動」こそ、本を面白くなくする元凶だ。

 神戸空港「反対」派が大きく後退した2003年の神戸市議選に際し、「住民投票運動の主要メンバーは高齢化し、成果がないまま走り続けるのは困難。後に続く若い世代が声をあげないことに不安を感じる」という中田作成さんのコメントが神戸新聞に載った。ナニヲカ云ワンヤ。こう云っちゃあ中田さんには悪いが。
 そうではない。単に運動の人らが「人を育ててこなかった」だけではないか。それこそ体たらくなのだと。
 ちなみに、『宮本常一のまなざし』(佐野眞一著、2003年1月)の帯に、佐野さんの以下の言葉を引用した。
宮本常一が最晩年につぶやいた「離島でも山村でも人間を育てなかったところは、もう僕がいってもとりかえしのつかないところまで事態が進行している。おそらく僕は死ぬまでこの問題に胸を痛めて歩かにゃならん」という言葉の裏には、「とりかえしのつかない状態のままでは、後世にこの世を渡せない」という思いがあったと思います。その思いをあらためて、一人ひとりが持つことが宮本常一の精神の世界を継承することだと、ぼくは思っているんです〉

 何だかんだ云って、結局これに尽きるのだ。零細地方版元なりに、できることをボチボチやっていくしかない。