恵みの雨。

mizunowa2013-06-15


画像:恵みの雨。



パソコン復旧。昨日は終日仕事にならず。
雨のなかこれから山口へ。県立図書館に籠って調べモノ。



今月末発送予定のDM文面、やっとでけた。以下。


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 各位

 拝啓 梅雨の候、ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。
 超多忙のため新年の御挨拶をお送りできず失礼いたしました。周防大島移転まる2年、ぼちぼちとやっております。近況報告、本のご案内など、お送りします。


 ●みずのわ出版、最低あと20年はツブれるわけにはいきません
 うちの殿下こと長男・悠太(昨年10月出生。4月から保育園児)が片付く目途がつくであろう、いまから21年後、65歳をもってみずのわ出版を廃業すること、子供には継がせないことで、家族会議の議決をとりつけました。21年と云いましたら大分と先の話と思われるかもしれませんが、過ぎれば早い、それほどに人生の時間は多くはない、だからこそ、限られた人生の時間のなかで、やるべきことを真剣にやらねばならぬと思うわけです。
 現実には、市場在庫やらやりかけの仕事やらあって、いざ廃業すると正式決定してもすぐに廃業するわけにはいきませんし、第二殿下もしくは姫が出来るかもしれぬも考えると3年から5年の定年延長は必要になるかもしれません。逆に、出版をめぐる状況のさらなる悪化は不可避であろうという考えに立てば、廃業時期の若干の前倒しもあるかもしれません。こればかりは、やってみなければわかりません。
 年間8点作ったとして、制作可能な点数は20年間で160点です。これまで作ってきた本が、きちんと数えてはいませんが、私家版や他社での仕事も含めておそらく180点ほどです。すなわち、折り返し点は過ぎたということです。
 印刷所に迷惑をかけるわけにはいきません。また、どれほどに経営が苦しかろうとも断じて作ってはならぬ本があるのと同時に、是が非でも作らねばならぬ本もあります。この先、少部数であろうとも、まともな本を1点でも多く世に残しておく必要があると考えます。
 そのうえで、可能なかぎり自給自足の暮しが維持できるように自家農園を整備するとともに、今後の高齢化過疎化の進行でウチの部落で耕作不能になるであろう耕地を借りるもしくは買い取ってでも、多少はおカネになる農業を目指す必要があると考えます。そうしていかないことには、私たち夫婦はよくても、後の世代である殿下がこの島に住み続けることは難しくなるであろうと、それを考えないわけにはいきません。
 地方がここまで疲弊したのは、多様な要因がありましょうが、その重要な要素の一つが「団塊の世代がよってたかって日本社会を悪くした」ことにあると私は考えます。神戸に居る私の両親などその典型ではありますが、地方から都会に出た団塊の世代、およびそれより少し上の世代を中心とした人たちが、自身の出身地をきちんと顧みることなく、夫々の地で連綿と受け継がれてきた生活文化を次世代につなぐ役目を放棄したこと、これに尽きるのではないでせうか。政治に携わる人々の馬鹿さ加減にもよく表れていますが、「今さえよければいい」といふ「気分」が世上に蔓延してしまったのも、それが原因ではないか。だからこそ、都会に作るわけにいかない原発を、これだけ、僻地に押し付けてきたわけであろうと。そこまでやってきて、のうのうと生き、のうのうと死ぬるつもりか、と。思えば、眩暈がします。
 先の世代に迷惑かけんためにも、仕方がないので、私は、私の親の世代がやってきた不始末の数々への、尻拭いをしていかなしゃーないと思い至りました。足掛け17年にわたって売れもせん本ばかり骨々と作りつづけてきたことも、そのためでありました。が、3.11を契機に、本なんか作っとる場合ではないと思い到りました。加えて、1.17を経験した神戸という街は、人死ににまつわる記憶をまったくもって大切にしていない。復興の名のもとに、すべてコンクリで塗り固めてしまった、その行き場を失った怨恨とは何か。1.17を境に変わることなく継続したものとは何か。神なき神の戸とは何か。そのなかにあって、西神ニュータウンの少年Aは凶気を育んだ。彼是ありますが、3.11を契機に、私が神戸という根も葉もない都市を見限った理由の一つでもあります。
 それを思えば思うほど、本など作ってる場合ではない。否、だからこそ本は必要不可欠であるという反語でもあるのですが、しかしそれにしても、夫々の地にあって、世代交代をしながら人が暮らしつづけるうえで、何が必要なのか。本よりも、もっと大事なものがあると、それを強く思うわけです。
 20年以上もパラサイトシングルを続けてきた(困ったことに四十路に入った現在も変わらず、です)私のある身内が、「やりたくなった時がやる時だ。だから、いまは焦って働かなくてもよい」と宣ったことがあります。ナニヲカ云ハンヤ、です。焦りは禁物ですが、一方で、個々に与えられた人生の時間はそう多くはありません。本の形で残しておきたいという企画がありますれば、なるべく早いめにご相談ください。つまらんモノならばお断りしますが、文化的に大切だと思う仕事であれば売り本であろうが私家版であろうが全力をあげて形あるものにしたいと思います。ここまで本が売れなくなってしまえば、すぐれた企画であっても、どうしても自費出版(もしくは、最低限、印刷代分は著者扱いで売り切っていただく形式)になってしまいます。この点、御諒承願います。
 本を買って下さい。買い支えて頂かないことには、出版文化は滅んでしまいます。また、本を読まないと馬鹿になってしまいます。テレビなど視る必要はありません。新聞も然り。ネットはスグレモノではありますが、ほどほどにしましょう。そんなことよりも、本を読みましょう。
 新刊・近刊案内は別紙の通りです。


 ●「宮本常一離島論集」2013年8月全巻完結につきまして
 長らく懸案となっておりました宮本常一離島論集全5巻+別巻につきまして、今年8月を以て全巻完結すべく、編集作業を進めております。編者(森本孝氏)より宮本常一先生が季刊「しま」に執筆された原稿の一覧とコピーをお預かりしたのが2002年夏。第1巻の刊行にこぎつけたのが7年後の2009年10月でした。全巻完結まで足掛け12年に及びました。全国離島振興協議会(以下、全離島)で刊行計画が立ちあがったという「前史」も含めますと、さらに長い時間がかかっています。
 当初、全離島刊「離島振興実態調査報告書 一」(昭和35年2月)を別巻1、全離島刊「中小離島における振興事業の意義と効果―石川、山口、長崎中小離島調査報告」(離島振興調査資料9 昭和36年12月)を別巻2として刊行すべく準備を進めていました。これは「先々著作集に入れる予定ではあるが、全離島関係の刊行物でもあり宮本先生の問題意識も現れているので、離島論集への収録を検討してほしい」と田村善次郎先生(武蔵野美術大学名誉教授)よりご提案をいただいたものです。確かに重要な資料ではあるのですが、本が読まれない時世にあって離島論集既刊(1・5・2巻の順で刊行)の実売部数は刊行を重ねる毎に激減しており、ましてや資料篇としての別巻ではさらなる部数減が予想され、全巻完結を困難にしてしまう危険性が高いと思われました。また、「しま」に掲載された宮本先生の論考は、体系性をもった「論集」として、現代の眼を以て編む必要がありますが、上記2件の報告書は刊行当時、離島をもつ市町村の担当部署や図書館等に架蔵されており、一連の作業を通じての高木泰伸学芸員周防大島文化交流センター)との話し合いのなかで、現状に鑑みて別巻1と2は無理をして刊行しなくてもよいのではないか、という結論に至った次第です。
 上記に加えて、1〜5巻に収録できない座談会、全国離島青年会議等での発言、講演要旨について別巻3として刊行する予定でした。これにつきましては宮本先生の講演CD付き「別巻」として5月末に刊行いたしました。
 離島論集1〜5巻の確固たる編集方針として、(1)全離島をベースにした宮本の「離島振興論」「島嶼国家論」として体系性を持たせる、そのために断じて「つまみ食い」をしてはならない、(2)原則として、本人が朱入れして「しま」に掲載した「記名記事」を収録する、の2点がありました。そのため、本人が朱入れしていないと思われる座談会や発言録、講演要旨などは除外して1〜5巻のコンテンツを確定したわけですが、そういうルールを適用することによって漏れてしまうものを拾い集めてみると、これは確かに、粗くはありますが、宮本先生の問題意識が先鋭的にあらわれたものであり、青年会議での講演要旨など見ましても、当時の離島青年に向けた宮本の強烈な激文であり、これは通常巻とは別個で編まねばならぬと考えた次第です。時あたかも離島振興法施行60周年にあたり、そこのところをきちんと位置づけることで、3・4巻に先駆けて、この別巻を優先的に刊行したいという考えに至りました。
 まともに作った本が売れない現状にあって、心苦しい限りですが、定価は高めに設定せざるを得ません。既刊(1・2・5巻)は本体2800〜3800円+税でしたが、5月末刊の別巻はCD2枚付とはいえ本体6500円+税、残る3巻(7月末刊予定)と4巻(8月末刊予定)は本体5000円+税に設定させていただきます。地方における人文・社会科学書の出版は日に日に困難の度を増しております。ひとえに皆様のご理解とご協力をお願いいたします。


 ●浜に寄る藻を拾いつつ
 島の生活文化をめぐって、京大東南アジア研究所の実践型地域研究ニューズレター「ざいちのち」(発行は7月頃か?)用に書いた拙文を、発行者の許諾をいただいたうえで、以下転載します。もの書き稼業は廃業に等しい状況ですが、勘が鈍らないように、時々は書いています。
 数年前のこと、「あなたの仕事からは新しいジャーナリズムは生まれない。みずのわ出版は価値がない」と、在京のあるジャーナリストから痛罵されたことを思い出します。私自身は、大文字のジャーナリズムなんて糞がつくほどにくだらないモノなんぞ、やってるつもりはないし、おカネもらってもやりたくないのですがね。まあ、長い時間かけて、勝負つけてやるつもりです。


 【以下、転載】
 浜に寄る藻を拾いつつ
 一昨年の夏に都会暮らしを見限り、山口県周防大島の亡祖父母宅に帰って素人百姓を始めた。家の敷地内に50平米くらいの畑があり、祖母が生きていたころは家で食べる野菜類は殆ど自前で賄ってきた。13年前に祖母が亡くなり、家は10年ほど無人になった。畑が痩せないようにと空いたスペースに柑橘類を植えて月一度の帰省のたびに草ひきに精出したのだが、日常的にきちんと面倒をみない畑では芳しい成果が上がろうはずがなかった。
 畑を再生するにあたり、化成肥料に頼らない循環可能な農業が実践できないものかと考えた。偶さか本業の出版の仕事で、印南敏秀編著「里海」三部作(「里海の生活誌」「里海の自然と生活1・2」みずのわ出版、2010-2012年)の刊行に携わったこともあり、上記三部作で重要なキーワードとして採り上げられた、ホンダワラやアラメ、アマモなど食用にしない雑藻(海藻・海草)の活用、かつて全国の海辺で当り前に見られた生活文化を取り戻すことから始めてみようと思い立った。
 浜で寄り藻(ちぎれて浜に打ち上げられた藻)を拾い、これを乾して畑に入れる。周防大島文化交流センターで取り組んでいる「海里山」体験学習の仕込みも兼ねて、学芸員の高木泰伸君と私とで、同センター地域交流員の福田隆司御大の指導を仰ぎつつ、時々浜に出て仕事に精出す。昼間から遊んでいるようにも映るが、海に出る楽しみ、作る楽しみ、食べる楽しみとかいったものと抱き合わせでないと、こういうものは長続きしない。
 周防大島に限らず、瀬戸内の島々の多くは花崗岩質で元々土が痩せているうえに農地も狭隘で、換金可能な作物に恵まれず、それゆえに貧しい土地でもあった。明治以降の海外移民、近世以前から続く出稼ぎの風は、島で養える人口パイが小さく、島では食ってはいけぬという切実な問題が根底にあった。たとえば、周防大島では江戸末期に甘藷が導入され、肥料藻の活用による生産増も相俟って人口の増加をみたものの、狭隘な農地では爆発的に増えた人口を養いきれるはずがなく、結果として出稼ぎの風を強めることになった。
 ウチの周りの農地は昭和40年代初めにコメからミカンに転作した。その当時の農家の跡取り世代が、いまは70歳代を超えている。彼らの多くに跡取りはいない。ここでは「青島」という温州みかんの従来品種が主流を占める。温州みかんが大したおカネにならなくなって久しい。とはいえ、代々作ってきた畑だからやめるわけにはいかんという使命感で続けている人、百姓仕事が好きで続けている人、そして長年の生活習慣、そういう人たちが島の農地を維持している。
 せとみ(なかでも、糖度13.5度以上、酸度1.35%以下のものは「ゆめほっぺ」のブランド名で販売される)、デコポン、レモンなど、もっとおカネになる柑橘類は確かにある。だが、それに切替えようにも、いまの農業はかつていわれた「三ちゃん農業」どころか、多くの場合、担い手は年寄りばかりで、跡取りのいないケースも多い。
 作付を転換しようにも人手と労力がかかる。せとみは高く売れるといっても、畑の管理に加えて寒をしのぐための袋かけや熟成するための貯蔵に多大な労力を要する。温州みかんがおカネになるといってコメから作付転換した昭和40年代と同様に、この先農業で食っていくためには時代の要請に沿った作付転換は不可欠であろう。だが、それができなくなっているところに、現代の問題がある。ここでもまた、循環が断ち切られようとしている。
 戦後、沿岸の埋立てが進み畑の農薬が流れ込んで海の藻が減ったこと、流れ藻の寄る浜が減ったこと、そして化成肥料の普及により、藻は肥料として利用されなくなり、海への無関心も相俟って、循環する海辺の生活文化は断ち切られた。
 痩せた農地で収量を上げるために化成肥料は効果があった。だが、長い目でみれば、それが地力を弱らせる結果ともなった。農薬も含め、陸地の汚染物質は海へ流れ込む。ウチのたかだか50平米(半畝)の畑に一度入れるのに必要な乾燥藻がおよそ20キロ。1反あたりだと400キロになる。必要な労力と確保できる寄り藻の量で考えると、これでは家庭菜園なら可能だろうが、農業経営を成り立たせるのは不可能だ。現在、産卵場保護のため藻刈(生えている藻を刈り取ること)は禁止されている。昔は多くの農家が藻を採っていた。それほどまでに昔の海は豊かであったのだろうし、また、担い手も多かったということだろう。戦後の経済成長のなかで、そういったもののすべてが断ち切られたということか。浜に流れ寄る藻を拾いつつ、この国と民族の先行きを思いつづけている。


2013年6月25日
みずのわ出版/みずのわ写真館
代表 柳原一徳