絵にならぬ写真をめぐる覚書。

mizunowa2016-01-24

去年の今頃出来た本。在庫あり。



「親なき家の片づけ日記 信州坂北にて」
文=島利栄子/写真=柳原一徳/装幀=林哲夫
発行=みずのわ出版/印刷=(株)山田写真製版所/製本=(株)渋谷文泉閣
プリンティングディレクション=高智之(山田写真製版所)

B5変形判角背ハードカバー 191頁 写真90点
ISBN978-4-86426-027-5 C0095 税込定価4,536円(本体4,200円+税336円)


本書巻末収録の拙文「絵にならぬ写真をめぐる覚書」より。

この本に収録した写真九十二カットは、平成二十一年(二〇〇九)十一月から二十六年(二〇一四)五月までの四年半にわたって断続的に撮影したおよそ三千五百カットから選び出したものである。日記本文に書かれているとおり、ご両親の遺品を撮ってほしいという島さんからのお声掛けが事の起こり。とりあえずは坂北の地に身を置き、風景もふくめ、撮れるものから撮ってみようということで撮影を始めた。
さて、人工光源に頼らずなるべく自然光で撮りたいときた日には、どうしてもお天気任せになってしまい、時間のロスばかりが多くなる。無駄の多い仕事。無駄ついでに、素人玄人の区別無く上手く撮れてしまうほどによく出来た今日日のデジカメを拒絶し、画質はよいが、大きく重く利便性に欠けるペンタックス67一台で、今はなきコダック・エクタクロームをメインフィルムに据えて撮影を進めた。チャンスを逃せばそれまで、縁のなかったものとしてあきらめる。撮り進めていくなかで、島さんのご両親が使い込んだ遺品もさることながら、その背景としてあるこの地の風光と生活文化、循環する人の営みといったものへと関心が広がっていった。
同郷の先達宮本常一の顰に倣えば、その土地を高いところから見下ろせば、また、田畑のつくり方や作物の出来具合、家や商店の軒先等々を見れば、そこの人々が働き者か否か、誠実か否か、すなわち、よい土地かよくない土地かがわかる。その地を覆う人心というものは、いかに取り繕っても隠しおおせるものではない。私自身、かつて取材の仕事に携わってきた経験からも、拝金主義に染まり誠実に働くことを美徳としない土地、年寄り子供を大切にしない土地、自らの来し方を大切にしない土地、さらに言うなれば、人死ににまつわる記憶を大切にしない土地がどれほどにグロテスクなものであるか、少なからず見聞してきたつもりである。
限界集落耕作放棄、空き家問題等々、地方、就中僻地をとりあげる昨今の報道は暗い話題ばかりが先行する。一極集中都市・東京で、日々大量の資源を消費し、食べ物はおろか水の一滴までもおカネで買う生活をしている人達の目には恐らくそうとしか映らないのであろう。確かに、僻地の現状は危機的だ。この本の背景にもそれはある。だが一方で、僻地ほどしぶといものもない。現状に鑑みて断じて楽観的にはなれないが、かといって悲観的になっても仕方が無い。嘆いたところで、日々の暮らし、季節の移ろいは待ってはくれない。
坂北の村で子供達と鉢合わせると、どの子も元気に挨拶してくれる。運動会の撮影ではいいものを見せてもらった。私がいま住んでいる周防大島でもそうなのだが、大人と子供の信頼関係、むら全体をあげて子供を育むという、その土地がもつ空気感といったものが、子供の挨拶や所作のひとつからもわかる。
そういう土地でつらつら写真を撮る。日常の光景。まったくもってドラマティックではない。すなわち、絵にならない。仕上がった写真全体を改めてチェックしてみる。よくぞまあ、これほどまでにつまらん写真ばっかり撮りためたものだと自分ながら感心する。写真を芸術と考える人たちや、社会の歪みを告発する手段として考える人たち、いわゆるフォトジャーナリズムを志向する人たちの目には、何の価値もない、つまらない写真の塊としか映らないであろう。
この本は、島さんの十年間にわたる「親なき家の片づけ日記」。ご両親亡きあとのおよそ十年の時間と、それに連なる何十年何百年の来し方、そしてこれから先へと連なっていく世代への言伝である。日々の出来事を淡々と綴った日記本文を前にして、写真ごときが声高に何かを叫んではいけない。信州の坂北という小さな村の、つつましくも幸せな暮しの記憶。まったくもって絵にならない写真の束が、土地に刻まれた人々のなりわい、その記憶を呼び覚ます触媒となるのであれば、一介の記録者としてこれにまさる喜びはない。
平成二十六年葉月 周防大島安下庄猫庵にて