燗冷ましの続き。

mizunowa2006-05-15

右は、『男達の神話』(福島清・著)発刊記念展(於、ギャラリー島田)会場写真。24日(水)まで。


5月13日付神戸新聞の記事(http://www.kobe-np.jp/rensai/cul/358.html)について「燗冷ましの三増酒」と叩いたところ、「私に言わせればあんなに長い時間話を聴いてもらって何をしとるんや。喋りすぎて短く何を書いていいか分らなかったのか、呑ませすぎて聞いたことを忘れたか。インタビューは共同作業や。喋り手に責任あり」と、蝙蝠しゃちょーから指摘を頂く。
それはそれでわかる。
だが、私は元新聞記者だ。事実上の開店休業とはいえ、今もプロの書き手としてのプライドは持っている。ましてや今は編集者として、他人の書いたモノの善し悪しを判断し朱を入れる立場にある。だからこそ、書き手の手抜きとか力量不足は看過できない。


つまりこういうことだ。
「出版不況、誰が一番悪いのか」と問われた時、「ひとえに版元の責任だ」と私は答える。佐野眞一さんの「本コロ」を持ち出すまでもなく、著者、読者、図書館、版元、取次、書店等々、それぞれ問題がある。だが、私の本業は版元だから「すべて版元が悪い」としか云えないし、それ以外に責任を転嫁してはならない。自身のこれまでの仕事への内省と、それでも続けざるを得ない見通しのないその先への覚悟を込めて。


そういえば、こんなことがあった。
奈良新聞社会部に勤めていたころ、文化面デスクの計らいで、1、2週ごとに書評欄に書かせてもらっていた。ある時、ある本の書評を書いたのだが、雑用に追われて時間がなくなってしまい、冒頭の2、30頁程度とあとがきだけしか読みこめていない状態で原稿を出したことがある。
「柳原君、あの記事、きちんと読まずに書いたやろ」
記事が載って数日後、私と会うやHさんはこのように切り出した。
Hさんは生まれながらの弱視で、当時、40数年生きてきて20回ほど目の手術を繰り返してきた。この人、博識に加えてどえらい本の虫で、駈け出し記者のころ足繁く通っては色々のことを教えていただいた。
「いつ見えなくなるかわからんけど、だからこそオレにとってはこの1冊1冊が大事なんよ。あんたもその覚悟で本と向い合わなあかん」と。


半端なこと書き並べるくらいなら、もうちょい智恵を絞ろうぜ、ということ。自分の手に余ると思えば人にふるのも手だ。また、極論すれば、喋り手がとんでもないアフォであろうとも、何か引っ掛かりをつけるのが聞き手の腕というものだし、こいつぁとんでもねえアフォぢゃと思ったら、何も尤もらしく書かんでもありのままに書けば、それはそれでいいのではないか。
たとえば、「林哲夫の装幀以外に見るところなし」「オッサン何が云いたいのか、通読したがさっぱりわからん」「インタビュウしたものの掴み所なし。言語明瞭意味不明」とかいった具合に。
作り手自ら「林哲夫の装幀以外に見るところなし」なんて失礼なこと微塵も思ってはいないが、ワシが「件の記者の立場」なら、あえてそう書く。それが、決して譲ることのできぬもの、すなわちプロの仕事師としてのプライドだ。