古典たりうること。

mizunowa2006-11-30

写真は、海文堂書店での三箱古本市のひとこま……って、いつの話しとんねん。
それくらい忙しかったんぢゃ……なんてついつい云うてしまうのが、自分ながらイヤですのう。みなさんそれぞれに忙しいのだから、そんなこと自慢げに云うちゃいけん。


11月半ばから12月半ばにかけてのひと月で5点立て続けに責了、という無茶な日程を立ててしまった。第一号が、三箱古本市に合わせて刊行した「神戸の古本力」(林哲夫高橋輝次・北村知之編著)。続いて本日夕刻「パンの木 登尾明彦詩集」の本文責了にこぎつけた。表紙廻りだけ装幀の林哲夫画伯のチェックがあるので翌日廻しだが、これでひと区切りついた。来週前半に「本屋の眼」(平野義昌著)、来週半ばに「ジャーナリズムのいま――新聞、放送、デジタルメディア、そして民衆運動の現場から」(古野喜政・隅井孝雄・川瀬俊治編著)、再来週半ばに「夢・葬送――浪速の唄う巨人・パギやん Song Book」(仮称、趙博著)を責了に持ち込む予定。年中こんなペースで本が出せたら、且つそこそこ以上に売れてくれたら、もうちょっと経営的に楽になるのだが……。たまたま、これまで仕込んできたもののピークが重なった、ということである。手は二本しかない。


話を戻して古本市。わての個人出品「みずのわ堂」でそこそこ売れたのは、ホカすにホカせぬショタレ本と束見本、それにワシが趣味で作ったポストカードセット……だった。八月書館、解放出版社、部落問題研究所、自治体研究社、社会評論社等々、軒並み坊主(丸儲け、ではない。念のため)ときたもんだ。ここらの本が飛ぶように売れた時代があったんだがなあ。ほんまやで。
そんなこんなで“見るからに痛々しい左巻き筺”は、当初の予想通りとはいえ、惨憺たる成績に終わった。時流に乗ってつくられた本は古典とは成り得ない。さういうことなんだらう。