「酒鬼薔薇聖斗」がいた場所。

新開地在住の妹と戌画伯、それと私の3人、快気祝いと称して長田でホルモンあてにドブロクをあおり、新開地で二次会。上り電車がなくなったので、名谷の戌画伯宅に泊めてもらう。朝4時頃までオッサン2人ウヰスキーをちびちび、それから午後1時まで爆睡。酒が旨いのは体調が戻ってきた証拠だ。ただ、内臓をいわした所為か身体は弱っている。1日8時間から10時間眠らないとしんどい……というより、それくらい寝てしまう。その分仕事が進まないのが困りものだが、当分は仕方がない。

ちょうど10年前、97年に起こった児童連続殺傷事件の現場を、帰り道がてら戌画伯に案内して頂く。小学生の生首が置かれた友が丘中学校の旧正門を見下ろす高台に、テレビカメラがずらーっと並んだという。そこに立つと、中学校の後方にタンク山、その先に明石海峡大橋が見える。
「男達の神話」(福島清著、小社刊)の「第七章 名状しがたい行方」に、次の記述がある。

 そしてまた、宅地造成によってその大半が失われた丘陵地帯にあって少年Aの住む北須磨団地への上水道の供給源としてかろうじて残された「タンク山」は、少年Aに限らずとも地元の古老達には「聖地」であったと高山(引用者註―高山文彦)は著書でいう。古くは、現在の地下鉄名谷駅にかけて八つの峰々が連なり、修験者が行き交う龍華山と呼ばれる山域であったというが、現在は友が丘中学校の西に隣接するタンク山だけが遺っているわけであり、そこで少年Aは死体から首を切り離す儀式を行っていた。
 そして、その聖なる山には給水タンクとともに少年Aが胴体を隠したテレビ用のアンテナ基地も建てられていて、それは団地造成にともなう高圧電線の敷設による電波障害が生じたために、テレビが映らなくなった近隣の多井畑厄除八幡宮を祀る古い村落の要請があり、団地の人々の拠出金によって建設されたものであるという。
 高山文彦の『地獄の季節――「酒鬼薔薇聖斗」がいた場所』(新潮社)を紐解く。
 ――かつての日本人なら、鎮守の森として、この山に小さな社を建てたことだろう。山中他界となったタンク山は、人びとのこころに豊かな死を育ませたかもしれない。自然への畏敬を失ったわれわれ日本人は、そこに情報を司る新しい神を鎮座させた。無形のものに意味はなくなり、経済優先の水先案内をつとめる情報という有形のものに、こころ踊らせていた。
「酩酊の舟2――無限に暗くそして防臭漂う」345頁

オッサン2人名谷駅までぷらぷら歩き、駅前のラーメン屋で朝兼昼飯を食して解散した。神戸の〈ニュータウン〉を歩いたのは、私の記憶が確かであれば震災の仮設住宅が解消した2000年以来ではなかろうか。あらゆる“無駄”とか“隙間”とかいったものを徹底的に排除した人工物の塊ともいえる無機的な町並みは、少なくとも写真や絵画のモティーフにはなりえないし、それ以前に、そこに立っているというだけで神経がざわざわして落ち着かない。酒鬼薔薇聖斗=少年Aはこの町で狂気を育み、ついには殺人行動を決行してしまった。

昨日も書いたが、児童連続殺傷事件だけではない。阪神淡路大震災オウム事件、沖縄の米兵による少女暴行事件――これらすべてが〈戦後50年〉に起こった。この12年とは一体何だったのか。震災後の私自身の来し方をかえりみるにつけ激しい慙愧の念に駆られるのである。