記事広、〆て5万円也。

某全国紙の販売店で配布している、というPR誌の記者から取材申し込みの電話がかかってくる。海文堂書店のPR紙「海会(カイエ)」掲載の小社刊行物の紹介記事を見て電話してきた、という。「地元でオモロイ人を云々」と云うので、はあ人物モノかいの、と安請け合いしてしまう。

版元のオッサンがメディアに露出しまくるのはよろしくない。編集者はあくまで黒衣だ。そんなことよりも、ウチの本と著者を紹介してもらうほうが仕事としては重大だ。とはいえ、ウチには一般紙に書籍広告を打つような経費はないし、東京の大手みたく全国津々浦々の書店に新刊配本を流しまくることも不可能ときたもんで、ただでさえ売れないものがますます売れないというジレンマを抱えており、当然のことながら世間に認知していただく機会は限られてしまう。だったら、来る者は拒まずで版元のオッサン自ら広告塔になるしか手がない。新聞等で地方の零細版元がとりあげられるに際して、ともすれば「地方でがんばっている」というとらえ方だけに終始してしまい、単なる祭り上げないし褒め殺しになってしまいかねない危険もあって、内心忸怩たる思いもあるのだが……。

さて、取材の件。明後日の夕刻にでも……という段に至ったところで、ぢつは掲載料が発生するのですが……という話になる。はあ、記事広(きじこう)ですか。それはシンドイですのう。なんぼくらいかかりますのん。訊いてみると、5万円かかるんだと。そらアカン。零細版元の経営状態がどんなものか、懇々と説明したうえで丁重にお断りした。

初めてかかってきた電話でもあり、ここではおカネの話しかしなかったのだが、これにはぢつは経費以前の大問題がある。
「カネを払えば誌面掲載する」というのは、「カネさえ出せば(中身はどんなにクソ本であろうとも)出版してやる」という姿勢にも通ずる。すべてそうだと云いきるつもりはないが、いま流行の流通付き自費出版の多くが、この程度のものだ。記事の取材執筆にしても「掲載料」を受け取ることによってそれは「広告」と化し、まともな批評など成り立たなくなってしまう。
もちろんカネの手当なくして出版は成り立たない(私は、お花畑の住人ではない)。が、出版にせよ取材記事にせよ、カネだけで可否を判断するという姿勢には断じて賛同できない。中身に対する信用の問題、これにつきる。