地道かつ愚直でありつづけること。

mizunowa2007-07-20

【写真】
くるま麩とポーク缶。
大阪は大正区、木津川べりにいつもお願いしている印刷所がある。時々近くの市場で沖縄食材を仕入れて帰る。神戸よりはるかに安い。


【「宮本常一写真図録第1集」本文校了
朝から印刷所に籠り、「宮本常一写真図録第1集 瀬戸内海の島と町――広島・周防・松山付近」(周防大島文化交流センター編著/森本孝監修)の本文出張校正にあたる。午後7時過ぎ校了。週明け印刷、27日出来・発送、の最終日程がほぼ固まる。主な書店に並ぶのは8月に入って以降になるが、フタバ図書MEGA祇園中筋店、フタバ図書TERA広島府中店、ジュンク堂書店広島店、紀伊國屋書店広島店、広島大学生協、フタバ図書TERA東福岡店で宮本常一生誕100年フェアを開催中なので、出来次第大急ぎで送らねばならぬ。神戸元町海文堂書店も、8月1日から宮本常一フェアを開催する。少しでも人目につくやうな所に持っていき、1冊でも多く売らんことには印税はおろか印刷代も払えん。年中ピンチ、だ。


【「宮本常一記念館」ではない理由、そして……】
周防大島文化交流センターについて、「“宮本常一記念館”と名乗らへんのはオカシイ」とか「活動らしい活動なんか、何もしとらへんやないか」などといった批判が彼方此方で聞かれる。……が、こういった議論が如何に的外れであるか。この度、同センター編著になる「宮本常一写真図録」の第1集を刊行するにあたり、巻末の資料編に以下の文章を収録した。本が出来てくるよりひと足早いが、執筆者の諒解を得たうえで以下に転載する。

周防大島文化交流センターの活動に寄せて
森本孝(元日本観光文化研究所あるくみるきく』編集長)


 周防大島文化交流センターが開館したのは、平成16(2004)年5月のことである。以来丸3年が経過した。この3年間は、人口や経済機能の都市への集中により、都市と地方の経済格差が顕著となった時期でもあった。財政破綻する地方自治体も現れ、同時に財政破綻寸前の市町村が他にも多く存在することも明らかになった。また、この3年間で、国の音頭によって市町村の合併が全国的に相次いだ。当初、旧東和町により建設された本センターも、開館した年の10月には、周防大島の旧4町合併により周防大島町の所管となった。周防大島町もご他聞に漏れず厳しい財政環境にあり、センター予算も投入員数も十分とはいえない状況にある。にもかかわらず、これまで企画展示、出版広報、体験学習等の数々の活動が続けられてきたのは、休日出勤も、時には勤務が夜半になるのも厭わず、パネル製作や広報用出版物の編集、体験学習等の諸々の準備作業等を行ってきた町教委社会教育課職員の努力によるところが大きい。


 ところで、センターは宮本常一ファンの方々には「宮本常一資料館」と認識されているようである。センターは宮本家から寄贈を受けた故宮本常一の著書・蔵書、写真、遺品を保管し、宮本の撮影した写真で構成したパネルを展示している。ゆえに確かに宮本資料館である。しかし、国の重要民俗文化財指定を受けた農林業、漁業、諸職の民具類、町が輩出した長州大工の木造家屋用木組み模型、市民が独自にチームを作り、調査した長州大工研究成果など展示されているほか、図書館も同じ施設内に併設されている。単に「宮本常一資料館」としての機能を果たせばすむ施設ではない。
 またセンターは、文部科学省の博物館法による博物館でも資料館でもない。正確には農林水産省の「新山村振興農林漁業特対事業」資金により建設された施設で、「子供等自然環境知識習得」を事業目的とした「文化教育交流促進施設」である。つまりセンターは町内外の児童・生徒のための農林漁業関連の教育施設であり、都市と農漁村部の青少年の交流の場としての活用を図ることを事業目的に含む施設である。農林漁業についての知識が深く、農山漁村や離島振興の実践者であった宮本常一の蔵書や写真資料類をセンターが一括して収蔵保管していることから、それらの活用を視野に入れて、センターの事業が模索されねばならない。
 開館以来センターは年2回のペースで宮本常一の写真を構成した農山漁村の写真パネルの展示やその町内巡回展示等を行ってきた。また農林漁業体験のある町社会教育課職員による農業や漁業の生産技術や、専門家を招いての海洋環境調査、植物調査他の体験学習、他町村の資料館への宮本写真の貸出などの活動も行ってきた。その活動域はかなり広範にわたる。センターではこれらの活動を通して、直接、間接的に宮本民俗学や宮本資料に触れることで、宮本流の実学やその実践方法が自然と身につくのではないかと考えている。このため、センターでは市民に呼びかけて、「宮本のフィールドノート」の翻刻作業や著作の紹介作業に参加してもらうことも行ってきた。そして成果の一部は、『宮本常一 農漁村採訪録 長崎県対馬漁村・漁業調査ノート』が2巻、また市民による『宮本常一著作ブックガイド』として、2007年8月に刊行される予定である。
 これらに加え、生前の宮本常一が「郷土にいて郷土の歴史、文化を研究する」地元人材の育成を重要視していたことを踏まえ、センターでは地元の有志による調査・研究グループとの連携も心がけてきた。その一つとして長州大工調査研究グループがある。このグループは故郷を出自とした大工の技術や活動の歴史を学ぶべく、四国や大島郡内、山口県下で、宮本流の「あるくみるきく」を実践している。そして、地元の大島郡下に、多くの長州大工の活動の跡を発見するという成果をあげている。長州大工の活動範囲は広範にわたっており、その調査研究の完成はまだ道半ばとのことであるが、成果の一端はすでにセンターの展示パネルとして結実している。こうした故郷を調査研究する実践力と健全な志ある人材が育っていけば、町の未来も見えてくるはずである。


 最初に述べたように、本センターが地方の過疎の町の施設である関係上、予算も投入できる職員数も限られており、宮本ファンの方々から寄せられる多岐にわたる要請や要望の全てに応えることは困難である。時には叱咤されることもあろうが、当分の間センターは身の丈にあった地道な活動を続ける以外にない。幸いなことに宮本資料は、100年塩漬けにしておいても腐らない。むしろ100年後にこそ、その価値が最大に輝きを発するのでないか。宮本資料の箱を開けると、そこから一気に100年前の空気が飛び出してきて、日本の地方の民衆の在りし日の姿が「絵巻物」のように浮かび上がり、人々の驚異を呼ぶのではないか。宮本資料は20世紀の日本の地方社会、農山漁村の姿を後世に伝えるノアの方舟のような存在なのである。その意味では、宮本資料を散逸しないように整理し、保管することでセンターの役割の大半を果たしていると言えなくもない。たまには派手な打ち上げ花火をあげるのも良い。だが花火は一瞬の輝きは見せてもすぐに消えて後には元の闇しか残らない。宮本資料を方舟たらしめるためには、地道かつ愚直に、資料整理と研究活動という基礎的な作業を行うことが重要になってくる。
 ともあれ、センターは今後も、宮本資料を少しずつでも整理・調査し、その成果は企画展なり出版なり、講演会、体験学習などの形で、市民と社会に還元していかねばならない。急激に劣化している昨今の地方の政治経済の環境下では、「宮本常一とその遺産」いう剣を振っての地域活性化を求める性急な声も起こってこようかとも思うが、宮本常一もその残した資料もそのままでは草薙の剣のように、燃え盛る平原の炎を鎮め、危機からの回避を図ることのできる万能の剣ではない。「我に草薙の剣あり」と叫ぶだけで、それを自由に駆使できるだけの体力、知力、実践力を身につけねば、実は剣を帯びることさえ難しいのでなかろうか。
 どうか長い目でセンターの活動を見守り、声援を送っていただきたいものと、開館以来側面からセンターを支援してきた関係者の一人として念願するばかりである。


宮本常一写真図録第1集 瀬戸内海の島と町――広島・周防・松山付近」資料篇より転載

周防大島文化交流センターがほんまに活動らしい活動を何にもしていないのであれば、この度の「宮本常一写真図録」など、はじめから成り立つはずがない。去年7月小社刊の「旅する巨人宮本常一 にっぽんの記憶」(読売新聞西部本社編)にしても、同センターの担当職員Oさんの地道な仕事があったればこそ成り立った企画である(「優秀」な学芸員氏=当時=ではないところがミソ、である)。
残ってこそ仕事だ。打ち上げ花火とは、本質において違う。