書肆アクセス閉店に異議ありッ。

mizunowa2007-07-21

【写真】
松山市中島総合文化センターにて、戌画伯の作品展示。明22日(日)まで。



まる1日アジトに籠り、ここ3ヵ月手つかずになっていた伝票の整理にかかる。売上実績たるや惨憺たるもの……。
それでも版元は本を作り続けるしかない。次の週末には「宮本常一写真図録第1集 瀬戸内海の島と町――広島・周防・松山付近」(周防大島文化交流センター編著、森本孝監修)が出来上がってくる、イコール一時的に在庫と借金がどかっと増えることもあって、性根を入れて不良在庫を整理しなければタイヘンなことになる。こちらの作業には数日前から取りかかっていて、在庫が寝床の僅かなスペースまでも占拠して蒲団が敷けない状態が続いている。「spin 02」の校正で昨日林哲夫画伯に電話した折、そんな話になる。零細版元の鑑やなぁと云われてしまったが……。


件の林画伯との電話で、書肆アクセス閉店の話題になる。業界紙に出た、もう伏せておく必要がなくなったからblogに書く、という。

書肆アクセスの閉店が決定した。先日、思わせぶりに書いたショックなこととはこれである。すでに公になったようなので、発表するが、「どうして?」という気持ちでいっぱいだ。赤字だから……そんな理由で何でも片付け、切り捨てていいのだろうか。地方小のスタートの理念はそんな合理主義一点張りだったのか。今の世の中、こう言う人はいないのかい。
「お金もうけしなくて悪いですか?」
sumus』創刊以来、ほんとうにお世話になっただけに、なんとか今からでも考え直してほしい。第5回書肆アクセスフェア「荻原魚雷が選んだ書肆アクセスの20冊」7月31日まで開催中!! お近くの方はぜひ買い占めに走っていただきたい。
今日は不在者投票期日前投票)に出かけた。まったくひどいもんだ!


昨日(20日付)のデイリー・スムースより一部転載

6月27日付当blogの末尾に記した「某書店」とは、書肆アクセスのことである。ウチは今年の暮れで創業まる10年を迎えるのだが、実は前史がある。個人営業の編集工房で仕事をとり、その傍ら書店直取引だけで自著と友人の著書を抱えて売り歩いていた95年の暮れ、たまたま模索舎で見つけた地方小の月報を手掛かりに、書肆アクセスに飛び込み営業をした。それが書肆アクセスとの結縁だった。その2年後に大阪のK出版社のアルバイトと並行して、私個人の編集工房を「みずのわ出版」へと改組(何か知らんが大仰な言い方やのう……)するに際し、最初に仕掛けた仕事の一つが地方小との契約だったというのも、書肆アクセスとのご縁がまず第一にあった。


赤字だとかカネがないとか云われた分には、私ら部外者はもう黙るしかない……のかもしれない。
ただここで一つだけ疑問を差し挟むとすれば、あそこは地方出版のアンテナ・ショップである。それを閉めてどないすんねんな?


ウチの問題に引っ張り込んでみる。
ぢつは、神戸を引き払って周防大島に完全に拠点を移すことを真剣に考えた時期がある。土一升金一升の都会で、毎月高い家賃払ってまでできる商売ではないと、今でも酷い状態に変わりはないが、一時期そこまで追い込まれていた。何が踏みとどまらせたか、大した理由ではない。本拠地が神戸にあるからこそ、こんなんやってみいへん〜? なんていう声もかかる。関西だけでなく、関東、九州まで手を広げることもできる。ここ数年大島関係の仕事を継続しているが、それは、神戸にあって大島を見るからこそできるのであって、大島にあって大島を見るというのは、編集者としては難しい(もちろん、母方の亡祖父母が遺してくれた拠点が大島にあるからこそ動けている。が、作り手の立ち位置で考えれば、それとこれとは別の問題。事に仕える者にとって、里心は敵だ)。大島に引っ込んだ日には、間違いなく桃源郷と化すだろう。そうなってしまえば、もはや版元ではない。「人」が出入りするところでなければ、版元なんかやっていけない。そんな、ごく当たり前のことに気づいた。ただそれだけ、である。
こんな儲からん商売やめて、毎日海を眺めて暮らすとでも云うんやったら話は別かもしれんが、現実はそうはいかん。僻地であろうとも、日々の暮らしにコストはかかる。安直に田舎暮らしに憧れてはいけない。


「人の来ん家は栄えん」と母方の亡祖母がよく云っていた。アンテナ・ショップがそこにあるからこそ「人」が来る。コストとか赤字とかを重視しすぎるあまりに、もっと大切なものを軽視しすぎてはいないか。へんこな版元のオッサンの目には、そのやうに映る。