海の生活誌。

mizunowa2010-03-13

「里海の生活誌――文化資源としての藻と松」(印南敏秀著)があがってきた。年度末〆の急ぎ仕事が片付いた。
瀬戸内や三河湾などの浅海で、いまは失はれてしまった藻と松の生活文化がテーマ、である。私がこまいころ(子供のころ)、1970年代から80年代の初め頃までの大島には、そういった生活文化がまだ色濃く残っていた。たとえば、山でかいてきた松葉で、安下庄の母方の祖父は木造漁船をタデていた。「船をタデる」ことを「船タデ」(フネタデ・フナタデ)といって、船の底を火力の強い松葉であぶって船底についた貝や藻を落とし、船底に穴をあけるフナムシをいてこます。潮が引いた時に砂浜に船をあげて、もしくは干潟でタデるわけである(当時は何処もかしこも浚渫してへんかったから、干潮になると干潟が現れて船がお尻をつくやうな漁港も多かった)。いまはプラスチック船にとってかわったこともあり、船タデを要する木造船は見られなくなった。それにもまして、干潟とか砂浜といったものが姿を消してしまった。そして、人の手が入らなくなった松林も、松枯れ病で消滅した。
ジャケットに使用した写真は、宮本常一が1961年4月に撮影した、周防大島西方の自宅前の干潟である(周防大島文化交流センター所蔵)。昭和40年代以降ここは埋め立てられて2車線歩道付の国道が走り、現在はさらにそのはるか沖合まで埋め立てが進み、陸上競技場や道の駅が鎮座している。
夏場になると、みなさん、自分とこの部落の浜で泳いでいた。島の学校にプールはなく、海に泳ぎに出ることが水泳の授業代わりでもあった。いまは子供が減ったこともあって部落の浜で泳いでいる子を見かけることは少ない。それ以前に、昔にくらべて泳げる砂浜が少なくなった。近年整備された片添、庄南などの海水浴場は、元々ええ浜があったのを土砂で埋めてコンクリートで階段状に整地して、中国から買うてきた砂を投入して作った人工海浜である。ふつうの砂浜はなんぼカンカン照りであっても海水が下に浸みているからそれなりに涼しいものなんだが、ここの場合地下のコンクリートが熱をもつため砂は焼けた鉄板のやうに熱く、浜に座っているだけで全身から汗が噴き出してくる。こんなもの、まともな砂浜とは呼べん。こうして元々あった砂浜をツブし税金を投入して島外の者の遊興に供している一方で、島の子たちは海ではなくプールで泳いでいる。むかしは、地下(じげ)の子と帰省した子との違いはひと目でわかった。チ○コとお尻以外は全身真っ黒けに日焼けした子が必ずいたんだが、それもいまは見かけなくなった。

あの時代に戻ることはできないし、戻す必要もないと思ふ。けれども、海とともに生きた先達の心の豊かさといふものについて、私たちはいまここで立ち止まって思ひを致してみる必要があるのではないか。単なる後ろ向きなノスタルジーではなくして。日本とか日本人といふもの(国家、民族、精神文化、その他諸々。ここでは端折る)が滅亡の危機に瀕している今だからこそ。


そんなこんなで、とりあげたネタには高度成長期あたりまでの話が多いのだが、不思議と私、その話リアリティあるんですよ。世間一般でそれがわかる年代からいへば、10から20はズレている。こまいころ大島の祖父母のもとで育った所為であることは間違ひない。思ふに、それだけ島は「近代化」から取り残されていたんだらう。本をつくるなかで、そんな話を印南さんにした。四国本土もそれに近い、同じ瀬戸内海でも本州とは違うと、印南さんはさう答えた。この人は愛媛県新居浜の生まれ育ちである。


本の詳細は烏賊参照。
http://www.mizunowa.com/book/book-shousai/seaweed%20&%20pine_tree.html

元町の海文堂にはもう並んでマス。