在庫整理。

mizunowa2013-01-11

フェイスブック自社ペイジ、より。


数日前から在庫整理にかかってゐる。取次からの返品の傷み具合をみて汚損品は処分し、使えるものはジャケットを巻きなおす。今にはぢまった話ぢゃないが、取次は品物の取扱ひが荒い。
掲載画像は昨年6月刊「評伝 海野光弘――風と光への旅立ち」の口絵とジャケット。編集者の力量でかなうはずのない相手といへば作家、詩人、学者。ええ本なんだが、いや、それ故か、まったく売れへんかった。



評伝 海野光弘――風と光への旅立ち
岩崎芳生 著
2012年6月刊 四六判上製315頁(カラー図版8頁)
本体2300円+税 ISBN978-4-86426-015-2 C0095

ジャケット版画 海野光弘「徳願寺山風景」1955年12月 39×52cm
帯版画 海野光弘「言問橋の人々」1958年12月 25×36cm
装幀 林哲夫
プリンティングディレクター 熊倉桂三(山田写真製版所)
印刷 (株)山田写真製版所
製本 (株)渋谷文泉閣
http://www.mizunowa.com/book/book-shousai/mitsuhiro.html



まえがき、より。

 海野光弘という木版画家が没し、すでに33年になる。没年は昭和54年(1979)、39歳であった。その海野光弘を顧みていま思うのは、そこで生の歩みを止めた一人の版画家の作品が、作者の死の翌日から一人歩きをはじめ、33年を経た今も共感者をじわじわと広げている事実である。
 世紀を跨いだこの年月は、社会的にも大変動の時であった。当時、世は消費時代のさ中にあり、あたかも日本という国自体がかがやかしい未来を約束されたかのような盲信に酔う日々であった。
 海野光弘はそのような時代にあって、ひたすら平均化されていく都市を離れ、人の目の及びにくい山村や海浜をたずね、時代に置き去りにされかけていた人々の暮らしを追い求めた作家である。そのことで彼の作品は生前から注目をあつめ始めてはいたが、懐旧のみにとどまらない〈意味〉が理解され、その内包する力が世に浸透しはじめるのは、むしろ作家没後のことである。
 先に、今日も共感者が広がると書いた。それは作品を信じて紹介に努めた者たちの力にもよるが、何といっても鑑賞者の支持の力による、と言える。しかもこの鑑賞者は世に自称する美術愛好家というよりも、普段は芸術から一歩身を隔てた一般の生活者であった、と言ったら言いすぎであろうか。生活者というものは健康なもので、絵でも彫刻でも、いわば芸術を芸術の約束事、世の評価によって観ようとしない。彼らはそれを観るとき、自分の快不快の情に正直である。日常は繁忙なものだから、感覚に快であっても不快であっても、翌日には忘れていく。しかし海野版画は一度前に立った者に、それを忘却させることがなかった。鑑賞者は生活の次元で知らなかった驚きを、版画から受け取っているからだ。一つの例を上げておこう。
 平成5年(1993)12月、没後15年を期に、静岡県島田市博物館で『海野光弘木版画展』が開催された。その期間中の12月12日、朝日新聞一面コラム「天声人語」で、海野光弘が紹介された。内容は、前年に刊行された蒔田晋治著『生命を彫った少年』(エミール社)で詳述された、中学生の海野光弘が版画の道に入る姿の紹介だったが、それに目を留めた思い掛けぬ人々が島田市博物館を訪れた。
 その93年当時、5年前に発覚し自民党竹下内閣を退陣させていたリクルート事件は半ば世間の関心を失いかけていたが、リクルート社の江副元会長や藤波孝生官房長官を被告とする審理は延々(13年余)と続いていた。事件はリクルート社による未公開株贈与の汚職事件で、90人以上の政治家が株譲渡を受けていたとされた。訪れたのは、その審理に当たっていた東京地検特捜部の検事一行だった。たまたま会場に居合わせた海野夫人が、一行が発散する雰囲気に何かを感じとり「どちらから、お出でいただきましたか」と聞いたことで、はじめて解ったことである。一行八名は、「よいものを観させていただいた」と、晴々とした表情で東京へ帰っていった。
 参考までに、その人々が博物館を訪れるきっかけとなった朝日の「天声人語」から、一部を引いておこう。
 コラムは、中学教師蒔田晋治の生徒指導の悩みを言った後にこう続ける。

……選んだ方法は、共同作業を必要とする版画制作だった。……▼それからの師弟一体の学級活動が『生命を彫った少年』という本に活写されている。子供たちは身近な人々の表情や働く様子を克明に観察し、彫った。「笑顔」「校舎の建設」などの版画集ができる▼そうするうちに、一年下の一年生の担任が海野光弘という少年の版画を「これ見てちょうだい」と持ってきた。感覚のよさが表れている。少年は仲間の一人となり、自分でも技法を工夫して、めきめきと版画の腕を上げた▼近くに朝鮮半島からの人々が住んでいた。海野少年はそこを訪れ、人々の生活を見守り、丹念に版木に表現した。温かい目と繊細な手が生み出した連作と文章が、右の本に収められている▼長じて中学、高校時代の友人だった克江さんと結婚した。蒔田さんが仲人を務めた。しかし海野さんは79年、これからという時に急死する。39歳だった。このほど刊行された『海野光弘全作品集』は惜しい早世を改めて実感させる▼昨日、静岡県島田市博物館で始まった木版画展で、蒔田さんは少年の一生を顧み、立ち尽くした。力のこもる深々とした、いい作品ばかり。「涙が出ました」

 この時の版画展には館側の予想をはるかに超える人々が訪れ、それが後の博物館分館『海野光弘記念館』の開設につながっていく。会場を訪れた人々が、鳴物入りの大美術展としてではなく、普段着で出掛けられる美術展としての印象を身近かな者に伝え、それを聞いたものが会場に足をはこぶ、という現象が起きた。その傾向はそれまでにもあったが、この時の島田市博物館の企画で起きたいわば海野現象とでもいうものが、版画家にとって幸福な成り行きとなった。
 では、人々に向けて放射する海野版画の美質は、俗であり迎合的なものであったのだろうか。答えはむろん、否、である。たとえば、海野作品から与えられる感興を、〈郷愁〉の一言でくくる傾向が、著者の身辺にもある。果たしてそうだろうか。
 たしかに野中の一本道、山陰にひっそりたたずむ草屋根の家、ねぎ坊主やもろこし畑の向こうに広がる空や青霞む山々、いずれの近景遠景にも人をかぎりなく郷愁に誘うものがある。では果たして、その郷愁を作家は描こうとしたのか、そんな筈はあるまい。では、作品に表現されるものに郷愁をこえる何が見えてくるのだろう。
 海野光弘は中学1年の版画日記で木版画に親しみ、やがて全国の中学版画教育の申し子のような存在になる。そして無垢な目とそれを的確に表現する技法を身につけ、さらには自然への目ざめをへて、後の版画家としての独自性への道を切り拓いてゆく。短い生涯ながら、それは版画への目覚めから二十数年、ひた走りに走った版画一筋の生涯だったと言える。
 その海野が手に入れた技法と、その奥行きにみちた表現力で表し得たものとは何なのか,また人を作品の前に立ち止まらせる魅力とは何なのか。
 著者はたまたま同じ高校に在籍して海野光弘を見知った偶然とともに、家業に就いたのちの彼が、深夜に仕事を終えて、直前まで染色の仕事に用いたがっしりした木製の台上に大判の版木を置き、父親と夫人の助けを得てバレンを捺してゆく姿を見る機会も得た。あの裸電球が吊り下がった、薄暗くがらんとした作業場の光景は忘れがたい。普段は温厚な彼が、いわば助手にかりだした家族に、別人のように気合のこもった声を矢継ぎ早に掛け、いささかの渋滞なしに手を動かしていく。真冬だというのに海野の額に浮きでる汗の玉を、小柄な父親が拭きとっていた。
 著者の中には、生活者としての普段の温和な彼と、誇張して言えば夜半の作業の阿修羅と化した姿と、そして摺り出されてくる堂々としたタブローにも近い大作版画が、重なって見える。
 ある時、版画家の道程を思い、それを「光への旅」(『静岡の文化』No.43)と名付けたことがあった。海野自身は地道な、着実の人であったが、その残された作品、見るたびに新鮮なおどろきを与えられる作品を頭の中に並べれば、おのずと風を追い光を求めて歩いた旅人としての海野像が見え出してくるのだ。その短くも豊かな生涯を追ってみたい誘惑をかかえ、私は何年にも生きて来た。