「大往生の島」の現実

mizunowa2006-08-13

【写真】
Unnennbarer Ort [camuro]
The works of Fukushima Kiyoshi
August 6, 2006


今晩の船で周防大島に帰省する。今回はゆっくりめ、1週間くらい居て家の面倒をみるつもり。盆に灯のともらない家ほど侘びしいものはない。

15日開催の沖家室開島400年記念行事で本を売る。
行事の詳細については、鯛狸(=^・^=)さんのサイト http://www.h3.dion.ne.jp/~kamuro/ を参照されたい。

以下、『沖家室開島400年記念誌――きずな』に収録された泊清寺・新山住職の文章からの引用。橋が架かっても変わることのない「大往生の島」の現実が、ここにある。島が島であるがゆえの問題は、かかわる者一人ひとりに常に重くのしかかってくる。

『沖家室開島400年記念誌――きずな』所収
新山玄雄「忘れ得ぬ人々」より一部引用

 島に帰って10ヵ月ぐらいたったろうか、近所のお婆さんが、身体が弱り、広島の子供の所に行くという。当時は橋も架かっておらず、近くに特別養護老人ホームもない。そのころもすでにこの島はお年寄りが多く、老人の島といわれていた。しかし、現実は、身体が弱り、病気にでもなるととても島で暮らすことはできない。相互扶助、近所の助け合いの精神は強いものがあるが、それも限度がある。一人で食事の支度ができなくなったり、病気にでもなったら、病院・施設に入るか、都会の子供のところへ行くしかない。
 島で生まれ、家庭を築き、子育てをし、夫を見送り、年老いたお婆さんだ。その彼女が島を発つ前に私に願ったことは、「お十念を下さい」ということだった。お十念をいただくという作法は、導師がお念仏を一回一回お称えし、それを復唱する。最後10回目に南無阿弥陀仏のお念仏を重ねることである。
 病気の彼女は、床に臥せていたが、それでも居住いを正して、私のお十念を受けて下さった。その頃の私はといえば、髪はボサボサで衣も我ながら似合わない。半人前の僧だった。しかも父が健在だったのに私の十念を欲しいというのだ。お十念作法のあと、そのお婆さんは、「ああ、これで安心して島を後にできます。長い間お世話になりありがとうございました。坊ちゃんもいいお坊さんになって下さいね」と言葉をかけてくれた。お十念を下さいと彼女にいわれたのだが、何のことはない、この私の方が彼女からお十念を頂き、引導を頂いたのだ。今にしてそう思う。
 次の日、せと丸での別れである。老人クラブの面々が見送る。百余名はいただろう。「まめでね、盆には待っちょるけぇ」、すると彼女が、「ありがとね、あんたらもまめでね、盆にゃ帰るけぇね」と答える。そうこうするうちにせと丸が岸を離れる。船の別れはつらい。誰かが、ハンカチを出して、目頭を拭いはじめると次々に伝染する。みんな解っているのだ。口では元気に言ってみても、これが今生の別れだということが。もちろんやがては帰ってくる。お骨になって……。
 こんな光景を何度か目にした。その時痛感した。この沖家室島は、当時も年よりの島といわれ、生涯現役、元気老人の島などとマスコミで言われていた。そんなことはない! ここは元気のいいお年寄りには快適な島であるかも知れないが、少し弱ったり、病気になったら島で暮らすことはできない。本当に老人の島というなら、安心して年をとり、病気にもなり、安心して死んでいける島でないといけないと強く思った。
 それが、その後の活動の原点になったような気がする。それからさまざまな活動に皆さんと取り組むようになる。


以下、戌画伯の出版記念展ご案内。

「男達の神話」出版記念 福島清展
2006年8月18日(金)〜26日(土) 11〜19時(会期中無休)


ギャラリー縄(しょう)
〒542-0081 大阪市中央区南船場2-10-30 豊城ビル1F
TEL:06-6245-7117 FAX:06-6245-7118
URL http://www17.ocn.ne.jp/~g-syo/


賛助出品 金重有邦、鎌田幸二、久岡冬彦
特別展示 石黒宗麿、金重素山、西岡小十