宮本常一の写真論……らしきモノ。

mizunowa2007-09-04

宮本常一写真図録第1集 瀬戸内海の島と町――広島・周防・松山付近」(周防大島文化交流センター編著/森本孝監修)刊行をとっかかりに、「宮本の写真論」らしきもの、をまとめてみた。以下「ジャーナリスト・ネット」9月3日付より転載。
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周防大島文化交流センター編著「宮本常一写真図録」刊行について


 宮本家からの寄贈により周防大島文化交流センターが所蔵し、現在整理を進めている民俗学者宮本常一(みやもと・つねいち 1907-1981)の10万点の写真を概観することは、質量共にシャレ抜きで不可能に近い。が、ありがたいことに、周防大島文化交流センターが年に1〜2回のペースで宮本の写真を元にした企画展示を行っている。とはいえ僻地の資料館であり、宮本に関心を持つ人々が再々訪れるには少々難しいところもある。まずは一度現地を訪れてほしいのだが、その前段として、せめて写真資料だけでも多くの人の目に触れる形にしたい。そんな願いもあって、今後のシリーズ化を視野に入れながら、西部瀬戸内海をテーマにした現行の企画展示を元に一冊の図録を作った。それが本書である。


「宮本の写真、戦後だけで10万点。スゴい!」という紹介を、新聞雑誌放送等でよく見聞きするようになった。でも、ややもすれば「生誕100年記念」とセットになった「宮本ブーム」に乗る形で「10万点」という数字の大きさばかりが語られるあまり、その内容についてきちんと議論されてこなかったのではないか。どうも、そんな気がする。
 宮本の写真はイイ、とみなさん仰る。語弊があるのを覚悟で云うと、実は私はそうは思わない。私自身、今は書籍の編集を本業としているが、元はカメラマンを本業にしていた。その一人として云わせてもらえば、宮本の一枚一枚のカットは、実はあまりいい写真とはいえない。否、それどころか、ぱらぱら見る分には何が何やら訳のわからないものばかりだ。主としてパンフォーカスのオリンパスペンを使っているとはいえ、ピントから露出から構図から何から何まで正真正銘の下手クソ。おまけに町のDP屋の腕でもあろう、現像処理も悪い。だが、1本のネガもしくは数本のネガに時系列で何が写し込まれているのか、また、取材で訪れた一つの島なり部落なりひととこで何を撮っているか、そういった流れ――「かたまり」で見ていくと、どんなところに宮本は目を向けたのか、が視えてくる。これは、職業カメラマンや写真作家の撮るものとは、本質的に違う。
 佐田尾信作記者(中国新聞文化部)の取材に対し、『宮本常一 写真・日記集成』(毎日新聞社、2005年)の編集にあたった伊藤幸司さんが「宮本の写真を一枚一枚取り出して意味づけしようとしてもダメだ。一本ずつのフィルムの流れ、かたまりで見ていかなければ見誤る」と話した、という。今となってはそれはよくわかる。だから、一見矛盾するのを覚悟であえて云う。宮本の写真はイイ。
 これは、確実な「見る目」を持った人が撮った写真群だと思う。
 私自身、日本写専でコマーシャル写真を学び、新聞社に入ることで報道写真に転じた。その経験からいうと、カメラマンはまずフォルムをきっちりとらえ、テクスチャを写し込むもしくは省略する。その被写体の背景にある人々の暮らしの変化とかいったものにはなかなか思い至らない。職業カメラマンの性(さが)というか、ここが越えるに越えられない一線だと思う。もちろん木村伊兵衛土門拳、棚橋紫水といった写真作家の、思想的なすぐれた仕事は多々ある。すなわち、職業カメラマンと写真作家は本質において異なる、ということだ。しかし宮本の写真は、これらのいずれとも異なる。そこをまぜこぜにして「宮本はすぐれた写真家」だとか「宮本にすぐれたアマチュアリズムを見る」などと云って脳天気に褒め殺しにしてはいけない。それでは、本質を見誤る。


 宮本がファインダーの先で関心を寄せたもの、それは漁船のつくりの変化だったり、道行く人々の足元だったり、農地の区割りだったり、海岸線の護岸の変化だったり、拾い上げれば多岐にわたる。この図録の第5章で、山陽本線大畠駅→広島駅→広島市内→国道2号バス→大竹→阿多田島へと移動する際の1本のフィルムを追ってみたのは、それをライヴ感覚で見てもらいたいから、である。モノを語るのはあくまで宮本の写真であり、監修者、コラム執筆者、編集者は読者にとって最低限必要な補助線を引く、というスタンスで編集にあたった。


 最近、宮本の写真をとりあげるに際して、昭和30〜40年代のノスタルジーとかセピア色の云々とかいった話が多いような気がする。それはそれでいちいち批判する気はないが、確かに違和感は大いにある。
 どうにも、「あの時代はよかった」などという後ろ向きなものの見方・考え方がベースにあるような気がしてならないのだ。小林よしのりの「おぼっちゃまくん」が精神年齢そのまんま成人したみたいな首相のバカさ加減を例示するまでもなく、今の時代があまりにもあんまりなのはわかる。そんな時代にあって世間は一服の清涼剤――これって粉末サイダーか?――として消費したがってる、としか思えないフシがある。
 でも、語弊があるのを覚悟で云えば、どんな腐ったご時世であろうとも、今が一番いいに決まっている。たとえば電気炊飯器や洗濯機、冷蔵庫がなかった時代、家庭の主婦は一日の大半を家事に費やしていた。そこから解放されたおかげで女性の社会進出も進んだ。企業を中心とした男社会を変革しないままに放り込み同化を強要してきた問題はおくとして、とにかく一概には云えないだろうが、男に比して幅の狭かった女の自己実現の選択肢は確実に広がったわけだ。昭和30年代を懐かしがる人々よ、ここで問いたい。ほなアレか、時代のネジを巻き戻せと本気で考えているのか、と。竈で炊いたメシはほんまに旨い。けど、それに戻せるのか? 自分でメシ・オカズひとつまともに作れんオッサンがどんだけいると思う? 肛門洗浄便座ってスグレモノでっせ、それをやめられるか? あんた、そりゃあ無理ですがな……と。
 長い歴史で見れば、一時的な滞留や逆流はあろうが、やっぱり人類は進歩しているのだ。でも、進歩の一方で退歩したものとは何ぞや? という捉え返しは常に必要だろう。私たちが進歩だと思い込まされてきたものが、実は退歩なのかもしれない。それは生きているかぎり常につきまとう。


 ともあれ、当面の課題は周防大島文化交流センターと協力しながら「宮本常一写真図録」を年に2点程度のペースで出し続けていくこと、である。未來社の「宮本常一著作集」と並行して、この写真図録が10点20点と積み重なっていけばオモロイものになると思う。私たちのできることといえば、基礎資料を後の世代に残すことしかない。すなわち、渋沢敬三から引き継いで宮本がやり残した仕事であり、もし宮本が生きていたとすれば取り組んだであろう(もしくは人をそそのかしたであろう)仕事の延長戦だ。それは、宮本を神様よろしく偶像として祀り上げることとは対極にある。私たちが死んだ後が本当の勝負だ。そのために、地味な仕事を継続していくしかない。
 その関連でいうと、宮本が何処の土地でどうしたこうしたどんなええことを云うた、遺品は、遺筆は、手紙は……という事柄には、実は私は殆ど興味がない。私は「オタク」っちゅうヤツが大嫌いなのだ。「後ろ向き」というヤツが何より好かん。そんなことよりも、宮本がやり残した仕事とは何か、その先の展開はどうなんだと、どうにも「その先」が気になってたまらない。だからこそ、大して儲かりもしないこの仕事を延々と続けている。


■「宮本常一写真図録第1集 瀬戸内海の島と町――広島・周防・松山付近」の詳細
http://www.mizunowa.com/book/book-shousai/zuroku1.html

周防大島文化交流センター
http://www.towatown.jp/koryu-center/koryu.html