四川大地震被災地からの手紙。

5月21日、北京在住の友人から送られてきたメエルより。当人の許諾を戴いたうえで以下に転載する。四川大地震被災地からのレポート。13年前の神戸より、はるかに酷い。

 まいど、北京です。

 地震2日目から昨日まで、新聞社の取材で四川省の被災地へ行ってました。
 とにかく悲惨の一言。阪神大震災があっちこっちで起きたような感じで、農村や山間部はどこも全壊、何もかもがペシャンコでした。はじめは事の大きさに驚いてたけど、3日目からぐらいから感覚が麻痺して何も感じなくなりました。新聞が報じている通り小学校や中学校の被害がひどく学校はとくに瓦礫の山で跡形もありませんでした。子供の名前を泣き叫ぶ母親を見るのはとてもつらかったです。

 救援物資は大きな被災地には大量に届いて余るほどあったけど小さな集落には全く届かず、救援物資を積んだトラックが何台も通り過ぎていました。水や食料をよこせと道の真ん中でトラックを停めて体当たりする人や、十数人の老人が「求救」と書いた板を持って黙って立ち続けている光景を目にしました。村の役人が逃げて誰も助けてくれない、どうしたらいいんだと憤っている家族もいました。

 地震2日目から雨が降り、救助作業は難航しました。公園や広場に野戦病院があり、多くの老人が地面に横たわり、家族が傘を差しながら救急車(一般の車)がくるのを待ってました。ブドウ糖など薬が届きだしたのは5日目ぐらいからです。3日目までは車はほとんど走ってなかったけど、4日目から救援物資を積んだトラックやボランティアが急に増えました。四川のラジオ局が被災地は水も食料もないのでみなさん助けてください、と何度も放送したからでしょう。
 でも、5、6日目から道が渋滞して救急車や救援物資を運ぶトラックが通れないほどになり、今度はみなさん被災地に行くのは控えましょうと言い出しました。現場はごちゃごちゃでした。

 都市部では仮設の設置が始まりましたが、壁は発泡スチロールをベニヤ板で挟んだだけ。これって倒れても大丈夫ってことかなあ?

 北川へも行きましたが死体が腐敗したあの臭いは忘れられません。日本の救援隊は生存者を見つけることができなかったけど、日本が一番早く駆けつけてくれたとみんな絶賛してました。北川で救助活動をしていた瀋陽の消防士からもありがとうと言われました。遺体に対して深くお辞儀をしたことがこっちのニュースで何度も取り上げられて、日本人の命を尊重する態度を見習わなければならないと、テレビで繰り返し報じてました。中国では日本人の印象はまだまだ悪いので、そういう日本人がいち早く救助に来てくれて、死者に礼をつくしたことに多くの人が感銘を受けたのだと思います。
 ただ、中国にとっては救助隊の受け入れはお客様を迎えるようなものだから危険なところで作業してもらって二次災害にでもあったら責任問題になるし、それに打ち合わせにも問題があったのでしょう。満足な成果が出せなかったのは残念です。

 余震も多いよ。余震で震度5や6だからねえ。一昨日の夜はびっくりして飛び起きました。昨日の成都空港は家族連れでごったがえしてて、飛行機を見て興奮する子供と地震の恐怖からか泣き叫ぶ子供がいました。

 五輪どころではなくなったね。まあ、地震の前から毒餃子聖火リレーなどいろいろあるけど。阪神大震災のときは北京にいて、神戸の実家に帰ったのは地震後1週間ぐらいしてからだったので神戸も直後はこうだったんだなあと、いろいろ考えさせられました。本ありがとう。では、またです!