肚にこたえる一冊。

mizunowa2006-09-11

7日深夜Mさん来社。出張帰りのクルマに積んでもらい、大阪のMさんの仕事場でイベント用冊子の校正にかかる。朝イチで印刷所に校正を戻さなければ納期に間に合わない。未明というより朝方、アジトまで送ってもらい、軽く呑んで4時間ほど寝てお昼時に再び大阪へ。あがってきた最終ゲラの照合・校正を済ませ、責了はMさんにお任せして帰宅する。ひとつでも外からの仕事が入ると助かる。飛び込みの仕事は確かにキツいが、切羽詰まっての代打に三振という選択肢はない。


2時間ほど雑用をこなして後、午後6時30分六甲アイランド発の阪九フェリーで新門司へ。9日は終日福岡で本業の書店営業と打合せ。翌10日はMさんと博多駅で合流し大刀洗へ。先に記した冊子とは別件のMさん発注の仕事で、写真撮影その他諸々。


帰阪を急ぐMさんを福岡空港で降ろし、私は九州道を新門司まで転がして午後8時の名門大洋フェリー大阪南港行に乗る。クルマゆえMさんと博多で呑んで帰れなかったのは残念だったのう、とか考えもって、船の食堂でひとり酒盛りを始める。前日、福岡の書店で衝動買いした「有明海の記憶」(池上康稔著、弦書房刊、2006年9月=冒頭の表紙写真)を読み始める。昭和30〜40年代の有明海の風景と、そこに生きる人びとを描いた写真集である。


詩人松永伍一さんの序文「有明海讃歌」の一節。

この写真集は海という自然の美しさを追い求めたものとする評価は当らない。自然と共生する人間の暮らし、つまり人間を描いたのだ。いのちに汗して生きる人間を。そこでは人が主役で、有明海は舞台だった。だから舞台と登場人物は見事に調和している。「ここに生きるのだ」と心に決めた人びとの方言の語りや喜怒哀楽の表情が画面から匂い立って来る。それは言うまでもなく写真家池上康稔さんの生涯を貫く決意の吐息である。


第1章にあたる「有明海に生きる」の冒頭に、以下の2行からなる著者の文が掲げられている。

わたしの写した景色はもうどこにもありません。
わたしの写真でそれぞれの人生を思い出してほしい。


この本を読みながら、「小学館アーカイヴスベスト・ライブラリー 名作写真館」12巻「荒木経惟 私生死日記 生と死を綴った天才の私写真」(小学館、2006年5月)の、以下の記述を思い出した。荒木さんの言葉をまとめた写真説明文、である。

(略)ノスタルジーがなかったら写真はだめなのよ。懐かしがるとか、過去に涙するとか、なくちゃだめなの。それから逃げてちゃダメなの。今、映画でもなんでも昭和が流行ってる。ウケてる。それはね、単に懐かしいんじゃなくて、もともと人間の生活においての重要な要素がそこにあるからだよ。時代がどんどんそこから離れてるから、みんな懐かしがるわけだよ。


肚にこたえる一冊と出会う度、自らの仕事の軽さを思う。

それと――。この日の酒のアテは刺身と塩辛にするんだった。これはこれで旨かったのだが、ついついカシワを選んでしまったことを激しく後悔した。