「誠実さ」といふことをめぐって。

mizunowa2008-08-27

「調査されるという迷惑――フィールドに出る前に読んでおく本」(宮本常一・安渓遊地共著、小社刊)の感想文を、新聞記者Fさんが送ってくれた。本人の許諾を戴いたうえで、以下に転載する。

 先日買った「調査されるという迷惑」、取材をする人間にとっては痛くて刺激になる本です。安渓さんという人の人間性がにじみでていてよかったです。「誠実さ」をめぐる部分にとくに共感しました。
 でも「事前にみせる」というのは、なかなかきついですねえ。
 以下感想文です。


  *  *  *  *  *


 安渓さんという山口県立大の先生は、伊谷純一郎宮本常一の薫陶をうけた人類学者で、アフリカや西表島でフィールドワークをしてきた。「バカセならいっぱいくるぞ」という痛烈な言葉でむかえられ、いったいその調査は地元に役立つのか、と自問するなかで、当事者にかたってもらう、という形をあみだす。しかしそれさえも、地元にさまざまな立場の人がいれば確執をうみだすこともある。

 借りたものを返さない学者。「書くな」というのに書く学者。誠実でさえあればよい、という立場に安住する作家……。筆者は、原稿を事前に調査対象の人たち、あるいは遺族にみせて、許可をえてから発表している。その結果、発表じたい不可能になったこともあるという。

 難しい問題だ。事前に相手に原稿をみせる、というのは、メディアの論理では基本的にはしてはならない(本人の談話や聞き書きは除く)。相手が権力者のときは当然そうなのだが、相手がふつうの人である場合は、「みせる」というのは重要なのかもしれない……。自分の「誠実さ」に甘えるな、という指摘も鋭い。

「自分にとって一番大切なもの、なくしたら困るものほど、他者にわけあたえなければならない」などと考えて、大事なモノを知人に贈ったこともあったが、そんな「重さ」が加わるぶん、はっきり言って迷惑だったろう。他者の立場を慮らない「誠実」は、滑稽であり迷惑である。「誠実さだけは自信があります」などと言う「まじめな」若者はけっこう多いが、過去の自分を見ているようで虫酸がはしるのだ。

「アフリカの田舎の状況を変える最先端の現場は日本だ。そこで希望を見つけないかぎりアフリカに戻れない」と筆者は考えて、アフリカから一時期遠ざかる。その感覚、よくわかる。だけどその後が私とはちがう。小さな畑をつくり、稲作に挑戦し……山村で県産材で家を建て、里山の手入れをしながらそこにある木で風呂と暖房をする暮らしを送り、ようやく7年後、もう一度アフリカに行ってもいいかな、と思えるようになった、という。
 やっぱりそういうプロセスを踏まなければならないのかもしれない。