全国どこへ行っても同じ……か?

昨夜だったかけふ未明だったか憶えがないのだが、いずれにせよ昨夜遅く、仕事中つけっぱなしにしているFM放送で、いま売り出し中の女子高生バンドがゲスト出演していた(深夜ゆえ生放送ちゃいまっせ)。長崎、熊本、鹿児島(だったかな……)とツアーを終えてきたばかり、という。九州のツアーで各地を廻ってどうだったかというDJの質問に対し、彼女らは、どこの町へ行っても同じだというようなことを話していた。

それは一面、確かに当っている。全国そこそこの地方都市へ行けば駅前にはたいがい居酒屋チェーンと駅前留学サラ金屋が建ち並び、元々そこにあった駅前商店街の類など閑古鳥鳴くシャッター街と化している。金太郎飴にたとえられる均質化の波はとどまるところを知らず、それを見るたびに旧ソ連の赤い官僚どもが泣いて喜ぶであろうほどよくできた日本という社会主義国家の実態に暗澹たる気分に苛まれる。

それでも、いまだ均質化されない、その町特有の空気とか風土とかいったものはまだ残っている。
たとえば同じ夏の暑さでも、大阪のそれと神戸のそれとはまったく違う。海と山に挟まれた神戸の町は坂道に沿って風が走り抜ける分だけ大阪よりしのぎやすいし、海が近いので幾分かの湿気をはらんでいる。それは、京都や奈良のような盆地特有の身体を圧し潰すような湿気とはまた違う。また、原爆忌前後の広島の暑さは尋常ではない。思い込みと云われればそうかもしれぬが、あの日あの町で灼き殺された人びとの怨念は今もこの地に残っていると思えてならない。それは1月17日の神戸・阪神間にも云えると思う。
そんな、一見写りもしないものを、強固な意思をもって写し込むのがカメラマンの仕事だと叩き込まれてきた。活字屋に転職した今も、これだけは忘れてはならぬと自戒している。

長崎、熊本、鹿児島……それぞれの町がもつ空気感の違いがわからぬほど、件の彼女らの五感が摩滅しているのか。それとも、全国どこへ行っても金太郎アメのような……という一般論で話したのか――。ラジオの会話はあまりにも断片的すぎて、その真意は私にはわからなかった。