ほどほど。

ゲバ字大好き編集者O君と山根はんの書き込みもあったりで、ついつい神戸高校事件の話題が続いている。ここらでちょいと話題の方向を変えて……、神戸高校にまつわる小ネタを。


私が高校を受験した1985年は、内申書を重視する、いわゆる兵庫方式最後の年だった。入試当日の点数よりも中学校が提出する内申書のほうが重要視されたことから点数の低い者が合格して高い者が滑るという“矛盾”が指摘されたりで、他府県と同様の方式に戻った経緯がある。
元々は受験競争の激化をおさえるために導入された制度だと聞く。それゆえ中学校での受験指導は(学校によりけりだが)かなり牧歌的なもので、高校受験そのものは大きな負担にならなかったのだが、その代わり公立高校の偏差値が相対的に下がり、たとえば地元の某国立神戸大学に進学できる者が減った――すなわち15の春は泣かなくても18の春は泣く――ということになり、批判が高まるなかで兵庫方式撤廃へと繋がっていく……わけである。京都方式が撤廃に至る顛末とよく似ている、と当時いわれた。

神戸市は3つの学区に分かれていて、第一学区における神戸高校は今も昔もトップの進学校である。当時普通科全日制では、県立神戸、県立御影、市立葺合、県立東灘、市立赤塚山の“序列”だったと記憶する(間違っとったらスミマセン)。
うちの中学校は当時1学年約220人で、11人が神戸高校、17人が御影高校に進学した。既に“高校全入”といわれていたあの時代でも進学率は90%程度、公立へ進学する子も全体の3分の1くらいだった。神戸で2番目のアフォ中学校と云われていたが、それだけ、いわゆる“学力”の地域間格差があったということだ。

こんな学校だったから、机に向ってお勉強する習慣をもたない私みたいなアフォでも、授業さえきちんと聴いていればそこそこの成績はとれる。あくまでアフォ中学だから通じるやり方だ。高校、就中予習復習の欠かせぬ進学校では通じない(机に向う習慣は就職してから身についた。そんなもの、である)。
実は、神戸高校には行きたくなかった。ほんまに行けるだけの学力があったか否かは知らんが、人を見る目のない中学校の担任からは行けると云われたし、そう勧められた。が、頑として断って御影高校に行った。神戸高校は成績が下がると部活動禁止で(今は知らん)、なおかつ国立大学に受かることを目的に指導しているものだから、特に数学が厳しいと聞いていた。ワシは算盤はできるが関数はわからん。それ以前に、ああいうナンバーワンというヤツに何か知らんが、ある種の胡散臭さを嗅ぎ取ってもいた、のである。


神戸の中学校は監獄だった。時代が平成に変わる頃まで丸坊主(地元では、そいつを指して“ハゲ”と呼んでいた)強制で、教師の暴力も横行していた。それがあったものだから、御影高校に入ってまず面喰らったのは、よく云えば自由なんだが、悪く云えば放ったらかしな校風だった。それですっかり羽目を外してしまい見事に落ちこぼれたし、その間に教師との抗争も体験した。それがよかったのか悪かったのかはわからないが、いまだに当時の仲間と会うとそんな話になるあたり、卒業後20年近く経ってもいくらか酒の肴は提供し続けているのだ、と……さういうことかの。


で、神戸高校だった。
御影山岳部の顧問K先生が赴任した当時、メンバーに問うたことがある、と。「何で高校総体出えへんの?」と。当時の先輩曰く「競技登山は邪道ぢゃ!」
兵庫県下の高校山岳部で、神戸高校はナンバーワンだった(今は知らんけど、たぶん変わってへんぢゃろ)。毎年6月に高校総体山岳部門の予選がある。六甲の杣谷堰堤にテントを張り1泊2日で開催、4人1パーティーで、ペース配分をみてピッチを切ることやらテントのペグの張り具合やらメシの炊き具合やら何やら……で採点するやつで、そいつを指して“競技登山”という。そこで毎年優勝していたのが神戸高校なのである。
K先生が赴任して何年かしてから高校総体の予選に出るようになった。「神戸高校は動きに無駄がないっちゅうか、うちの連中とはなぁ、まったく出来が違うんやな」とよく話していた。ある年などブス(石油コンロ)の調子が最悪で、みんな寝静まるころになってやっとメシが炊けた。ヤケクソになった御影高校山岳部、ついに隣のテントのY高校の連中と深夜にエールの交換をおっ始めた。これには参った。こんなことワシらに話すK先生もまた楽しそうだったが。

まとまりがつかなくなってきた。
神戸高校なあ……。あのナンバーワン体質だけは受け容れられん、というのが私の実感だ。あそこの「自由」ってやつは、名門旧制中学のクソ重たい看板とセットになっている。
御影高校は進学校の割には呑気なところだった。だから一番にはなれんのだらうが、それでも命を取られることはない。何事も“ほどほど”というのがエエんぢゃないかな。